結月でございます。
弱いくせに将棋を眺めるのは好きなわたしはAbemaTVで竜王戦の最後を見ていた。ちょうどそれは両者が残り時間数分という場面だった。
AIの評価値は87%ほど藤井聡太三冠になっていて、豊島竜王で勝てないなら藤井三冠に勝てる棋士はいなんだなと思ったりする。
藤井三冠はAIを使って研究しているけれど、AbemaTVのAIは40億手なんていう気が遠くなるほどの読み手を読んでいる。人間では不可能な領域で、目眩がする。
ところでプロフィールページなんかで、あなたの主義は?といった質問がある。とりわけそんな質問に律儀に記入することはないとはいえ、どう答えるかなと少し考えてみると、多分、
「資本主義」
と答えるか、
「イデア主義」
と答えるだろうか。
以前だったら、コスモポリタリズムと答えたかもしれないが、今はそれは幻想だと気づいたから答えない。民族間にはバカの壁があって枠組みを取っ払って付き合うことなんてできやしないことがよくわかっているから。
イデア論は古代ギリシアのプラトンであって、イデアがあるからこそ、この物質界に美が存在すると考える。
しかし、音楽もベートーヴェン以降はいい曲があるのはわかっていても、イデアがベートーヴェンによって無視され始めたように思え、やっぱりモーツァルト以前がいい。
ただし、これは好みの問題である。
モーツァルトは想念界にある美のイデアをほぼそのまま受信できた人で、イデアが何かを知ろうと思えばモーツァルトを聴きさえすればいい。
ところで今はイデアから芸術をしている人はほとんどいなくて、ベートーヴェン的である。もっと言えば、岡本太郎的である。
芸術は内なる爆発であって、
「芸術は爆発だ!」
となる。
モーツァルトの音楽は爆発なんてしやしない。イデア界をそのまま描写しているだけであるから、内なる爆発を必要としない。
さて、将棋の話に戻ると、AIに基づいた将棋ソフトが本格的になって将棋というものがイデア化したのではないかと思う。
イデア界は物質界の人間が感知するにはあまりにも困難であり、物理的意味でない遠くにありすぎる。
AI以前の将棋は人間的、あまりにも人間的であって、人間臭さが棋譜に出ている。内なる爆発を求めるようなもので、客観的に研究はしていても人間臭さが出る。わかりやすいのは加藤一二三元名人で、ひふみんはコテコテにひふみんなのである。
しかし、40億手も瞬時に読まれると、それは将棋のイデア界で人間にはすべてを把握することはできない。藤井三冠は人間の中で最もそのイデア界からの情報を感じ取る能力があって、しかしそれは無限に広がるイデア界のほんの一部でしかない。
あのモーツァルトだってイデア界すべてを描ききることは出るはずもなく、ただ人間レベルとしては人類史上ずば抜けた力があった。
無限に広がるイデア界、実はこの表現は誤謬で、イデア界は想念界であるから物質ではなく、物質的距離はない。物質的に目に見えるものでももちろんないし、姿形を把握できない非物質な世界である。
それはあまりにも高次元にあるものだから、神という概念にも近いわけであるが、神というものはイデア界をも包括するほど高次元であって、三次元の物質的空間でしか生きることができない人間は三次元以上の高次元はほとんど感知することができない。
しかし、AIが進化し、さらにこれから進化すると、人間の中に内包するイデアを何十億人分というサンプルを抽出し、さらに過去の人間のサンプルまで取り入れるとなると、帰納法的にイデアを導き出すことができる。
もちろんそれはサンプルがいくら多くとも人間からの抽出であるから、イデア界すべてを捉えるのは無理で、極めてごく一部である。しかし、ごく一部と言えども今まで触れることすらできなかったイデア界がAIによってほんの少しだけ触れることができるようになっている。
それは藤井三冠がそうであり、AIによって少しだけ見えた将棋のイデア界を触れているのだろう。
さて、イデア論の正反対にあるのは、
「実存は本質に先立つ」
というもので、つまり実存主義である。
イデアとは、
「本質は実存に先立つ」
であるから。
音楽史で言えば、ベートーヴェンが音楽を実存主義的にした。
思えば、イデアとは思考がないものである。ただ美のエキスとして存在するだけである。
イデアには葛藤がない。ウイルスみたいなものである。
ウイルスは生物ではない。遺伝子の切れ端みたいなもので、ホストとなる細胞がなければ増殖することができない。
イデアもそうで、イデアだけでは物質にならず、そこに物質としての花がなければならない。
花の美しさはイデアがそこにあるからで、物質的な花というホストが必要なのである。
モーツァルトの音楽には思考がない。ただ美しいのである。
ベートーヴェンの音楽は思考だらけで、内なる爆発がある。
わたしは実存主義を否定する気はなく、人間という物質体である以上、実存主義がないと生きることができないとわかっている。
すべてに人間には個々の個性があり、つまり実存があり、同一のものがひとつもない。
人間は生まれた瞬間から実存的存在なのである。
自分探しといった愚かな自己啓発をしなくても、あなたはあなたでしかなく、探しに出かけなくともあなたはそこにいる。疑うのであれば鏡の前に立ってみればいい。そこには自分という同一の存在がない実存を持つ自分が目の前に映っているはずだから。
そして、イデアは個がない。砂糖水に溶け込んだ糖分のようなもので個がないがために砂糖水を砂糖水たらしめている。
ところでおもしろい疑問がある。
将棋のAIが将棋のイデア界にいるとすれば、最終的には将棋に勝ち負けがなくなってしまうのではないかという疑問。
イデアには個がないのだから、勝敗がないはずなのである。勝った負けたとは個があるがゆえに成立する。イデアは個がないから個に対峙することはない。
AIが人間棋士に絶対に負けないのは、人間棋士が個たる存在であるからで、個に対峙してイデア界は人間を凌駕するから勝敗が発生する。
だから、将棋の最終形とは勝敗がなくなることで、もっと言えばそこに到達すると将棋というものが消失してしまうのだろう。
そうなると元も子もない。
しかし、心配はいらない。
イデア界は人間より遥か高次元であるから人間は決して到達できやしないから。せいぜいモーツァルト級の天才がほんの少し人間界にイデア界の片鱗を見せてくれる程度である。
だから、人間は実存的主体として存在し、常にイデア界と知らぬ間に対峙している。対峙しているからこそ、イデアに憧れ、イデアを感じることができる。
AIがどれだけ進化したとしても、それは人間からのサンプリングの統計であるから帰納法的である限り、人間界にある概念は消失しない。
イデア界からのエネルギーは演繹的に、人間界に至るところに広がり浸透していて、それを抽出しようとするのが芸術家なのである。
しかし、今の芸術は残念ながらベートーヴェン的すぎる。
それではイデアはなかなか見えてこない。