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共有、共感の時代も終わりだから、他人のことより自分のことに目を向けよう。

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結月です。

TwitterやFacebook、InstagramなどSNS はいろいろあるけれど、どれもアカウントを持ってはいても、わたしはほとんどそれらをしていない。

せいぜい、ここで書いたことをリンクしているだけでそこに積極的に書き込むことはしないし、だから他人のFacebookの投稿もほとんど読むことがない。

そういうSNSは自分のパーソナルな情報を発信して、共感を得ようというものなのだろうけど、そもそも他人から共感を得ようと思っていない性格のせいか、自分にとってはSNSは向いていなくて、ブログみたいに好き勝手に書けるもののほうが合っている。

今、評価経済なんてことも言われていて、フォロワー数がたくさんあればあるほどその評価が高いってことがある。

それは確かなところもあって、本が売れないと言い続けて20年くらい経っている出版業界はすでに自力でコンテンツを開発して、売り上げを立てる力を失っているので、フォロワーが多いひとの本を出すようになっている。

つまり、フォロワーがたくさんいるひとが本を出すと、そのフォロワーが確実に買ってくれるからというやり方。

このやり方は企画に賭けるリスクが大変少なく、最低限の販売数を見込めるから、ジリ貧で閉鎖的になればなるほど、そういう本ばかりになる。

しかしながら、フォロワー向けの本はフォロワー外にはあまり浸透しなくて、見込んだ数は売れるけれど、それ以上の爆発的な売れ方はしない。

爆発的の売れるものは、映画『君の名は。』のようにフォロワーでないひとが数多く劇場へ向かうというものだから。

ともかく、とんでもない数のフォロワーを持っているひとは、やっぱりそういうのが上手いんだなと体質的にSNSに真剣になれないわたしなんかは思うのだけれど、その元祖というのは、幸福の科学の大川隆法でしょう。

彼は自分のコンテンツで信者を集め、その信者向けに本を出版する。しかも自前で出版社まで作っているから利益がすべて自分のものになる。

インターネットもない時代にそれを始めたのだから、内容は別として、手法としては時代に先駆けていたと言える。

SNSが登場してから新興宗教にハマってしまうひとがほとんどいなくなった。新興宗教が社会問題化することも聞かなくなった。

それは宗教的なコミュニティがSNSが取って代わっているからであり、今は宗教の時代ではない。

とはいえ、その構造は宗教とあまり変わりがなく、誰かに対して烏合の衆が集まっているというのは同じ。

フォロワーというのは、アカウントに名はあってもその本質は名もなきひとたちであり、実質的には社会で力はない。

さて、SNS時代になって「共有」とか「共感」という言葉がよく使われるようになった。

SNSの特性がそうしたものを集めるもので、同じく共にしたひとたちがそこに集まり、コミュニティを作る。

しかし、そろそろそれも限界にくるのではないか、とわたしは思っている。

つまり、多くの人間が共有、共感できる状態は本当はあるようでないから。

あるひとつのテーマに関して共感していても、人間は多面的であるからその他のテーマについては共感できない場合がある。

そうするとたちまち対立が起こるわけで、「荒れる」とは共感したものとは本質的に異なるところで起きている。

本来、SNSはそうした対立構図から逃れられる宗教的な場所であったはずなのに、宗教も内ゲバがあるように共感を求めて対立が生まれる。

その対立は大変面倒なものだから、「気を遣う」ことが求められ、お互いを褒め称えたりして評価し合う。

これはまさしく女同士で、

「とりあえず相手の服は褒める」

というのと同じで、そこに本心はないし、究極の社交辞令だし、挙げ句の果てにはやっている本人たちがそのおべんちゃらに疲れてしまう。

共有を求めて参入したコミュニティで、共感を演出するための手続きが必要になってくる。

こうなると装わなくてはならない面倒が発生し、共有を求めることで共有が失われるというジレンマに陥ってしまう。

ところでネットコミュニティには大きく二つあって、ひとつは宗教的なもので、ある人物の周りにフォロワーとして集まるケース。そしてもうひとつは特定の人物なしに何か趣味的な共通点で集まるケース。

後者は、例えばわたしが「栃木好きなひと、集まれ〜!」というFacebookページを作ると、おそらくある程度のフォロワーが集まってくるというもの。

しかし、そういうコミュニティは極めて漠然としたもので、栃木の何が好きなのか、好きだから栃木で何がしたいのか、コミュニティとして何をしていくのか、など具体性に乏しいものになる。

そうするとそれはコミュニティの形をしていそうで中身はコミュニティになっておらず、共感がありそうで実はあまりない。

宗教型も教祖的な存在のツイートや書き込みを読み、共感することには熱心だけれど、宗教の信者が自分で考えることを放棄するように集まる人間は無個性になる。

つまり、どちらの形式にせよ、ネットコミュニティは無個性が集まるということになりそうで、激しい書き込みのわりには個性がない。

そんな膨大な無個性の集まりの中で共有、共感が求められるけれど、そこから何かが生まれるかというと、あまり期待できない。

それは女同士で相手の服を褒め合うだけの表向きの共感だからで、あとには何の残らない刹那の称賛でしかないから。

さて、あまりにも共感を無理強いされすぎてきたように思う。

それは無駄な争いを避けるための処方箋であったのだけれど、やはり人間には「共感できないもの」というのがある。

ネットはあらゆる主義主張を同時に見ることができるから、同じくして自分の主義主張も見られてしまう。

だだっ広い世界での異種格闘技戦のようなもので、攻撃されないためにはできるだけ相手の服はダサいと思っていてもとりあえず褒めておくほうがいい。

しかし、本心はそれを「共有でき」ない。

この世には自分とすべてが同じの人格を持つ人間はひとりもいない。

だから、すべてを共有できる人間なんていやしない。

それが人間の本質であるのだから、共感し続けられることなど土台無理なのに、SNSではそれが無理強いされすぎてきたと思う。

共感を繕う書き込みは意味があるものは少ないし、社交辞令だからそれで物事は動かない。

他人の私生活やリア充を眺めても、実のところそれで自分の人生が変わるなんてことはない。

誰かがどこに行ったとか、どこで何を食べたかなど他人の絵日記なんかどうでもいい。

もっと自分自身に目を向けるべき。

他人の生活を垣間見る時間があれば、自分に目を向けよう。

自分がどういう人間で、自分が何をしたくて、自分に何が足りなくて、自分には何ができて、自分にはどんな可能性があって、自分でしかできないことは何であって、そして自分が何者なのか、自分がどのように生きて行きたくて、自分がどのようのに死んで行きたいのか、それを真剣に考えよう。

他人がどんな飯を食ったかなんかより、そっちのほうだ大事だから。

そして他人に共感を求める投稿はやめよう。

人間なんてすべてを共感できない。それが普通であり、共感できないことがあって当然。

共感を求めるよりも相手が自分と異なる人間であることを理解しよう。

本当の共感はその理解があってからの話。

異なることを恐れてはならない。

その恐怖から自分を殺した社交辞令なんて自分のためにはならないから。

そして、異なる相手を攻撃する必要もない。

自分に目を向けていれば相手のことなど気にならない。相手を気にするなんて、直視すべき対象を見誤っている。

自分のことを考えよう。

自分が何者であるのか、自分という存在のことを考えよう。

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