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他人の不倫はどーでもいい

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結月でございます。

芸能界の誰かが浮気をして、その奥さんは有名な女優らしいけれど、その両方の名前を聞いても芸能人に疎いわたしはピンと来ない。

名前もよく知らない人な上に、そもそも会ったこともない人の不倫。名前を知っていたとしても他人の不倫に世間って関心があるものなのかなぁと不思議に思いつつ、それはメディアが騒ぐだけで、現実のところわたしみたいに「どーでもいい」と思っている人のほうが多いんじゃないかなとも思う。

仮に知人が不倫していても「どーでもいい」ことだよね。

さて、数日前、わたしは寝違えてしまった。左の首筋が痛く、クルマで駐車場からバックで出るとき、後ろに首が回らなくて体ごと「えいやっ」とひねらなければならない。

今日はもう痛みはなくなってきたとはいえ、思わずTwitter、もしくはFacebookに、

「寝違えて、首が痛い」

と、書き込みそうになって、ふむふむ、SNSというのはそういうものだと思った。

わたしが寝違えたことなんて他人にとっては「どーでもいい」のに、寝違えて首が痛いことを他人に知らせたいと思う心。

寝違え程度のことをわかってもらいたい気持ち。

そういうものが人間にはあるもので、それで痛みが和らぐわけはないにせよ、人に伝えたくなる。

だから、SNSは何かをわかってほしいではなく、何かに共感してほしいと願うツールであり、それはネガティヴにもポジティヴにも使われる。

ただ、ほとんどは身体、もしくは心の負った苦痛の告白、もしくはちょっとした自慢だったりする。

あとは何処かの誰かへの公開説教だったり、言ってみれば無人島から空き瓶に手紙を入れて投げ続ける行為であり、無人島にいる遭難者よりは確実に誰かにそれが届くといったところ。

瓶の栓を開けてその手紙を読んでくれる場合もあれば、どこかの無人島にいる人の周りにはたくさんの空き瓶がプカプカと浮いていて、眺めるだけでスルーという場合もある。

そう考えると、人間は無人島の遭難者のように孤独で、その肉体は小さな無人島であり、海に向かって寂しさを語りかける。

さて、「寝違えて、首が痛い」という告白をSNSに投稿するのを思いとどまったのは、自分から離れてその記述を見た場合、あまりにもくだらないと思ったから。

わたしを知る誰かなら同情くらいはしてもらえても、わたしを知らない人にとってはどこの誰かは寝違えたことなんて「どーでもいい」ことであり、その記述の「しょーもなさ」に自分で気づいてしまって、自分にとっても寝違えがしょーもない問題に落ち着いた。

なんて言いながら、ここで寝違えたことをネタにしているのだから、結局しょーもないことをしていると思いつつ、SNSで「寝違えて、首が痛い」と告白するよりかはちょっとはマシな記述になったかなと思ったり。

というわけで、他人の不倫もどーでもいいということで、おしまい。

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