結月でございます。
昨晩から栃木にいるわたし。
夜中に、
「寒っ!」
と、目を覚ます。
それは年が明けると2歳になる愛娘の台風のような寝相の悪さに夜中に何度も足で蹴られ、布団まで取られていたからで、2歳児はなんだか豪快な人間になるような予感。
それはそうと、貰い物でイチゴを食べた。
栃木はイチゴの日本一の産地であるわけで、「とちひめ」と「スカイベリー」という品種を晩御飯の後に食べたわけ。
見るからに高そうで、立派な雰囲気を醸し出すイチゴで、イチゴのくせに威風堂々としている。
しかしだね、しかしだよ。イチゴかこんなになっちゃっていいの? こりゃ農作物っていうか、スイーツじゃね?と思うほどの出来で、ちょっとこれには驚き。
調べてみると、「とちひめ」というのは痛みやすいからほとんど流通していなくて、栃木でないと食べられないらしい。
「とちひめ」と「スカイベリー」が1パックずつ入った一箱で3500円ほどするみたい。
ともかく、これらはイチゴの完結型と言ってよろしく、これはケーキになんか使えない。イチゴだけで完結しているから、イチゴだけで食べるのがおいしい。ミルクもいらない。何もいらない。イチゴだけで食べるべき。
ケーキに使うなら、普通のイチゴでないとスター選手ばかりでまとまりがないオールスターチームみたいになっちゃってダメだと思う。
しかし、こんなすごいイチゴを食べると、昔にあった酸っぱいイチゴ、自然の果実って感じがするイチゴも懐かしくなってくるのだけれど、人間は常に進化を求めるものだから人類は「とちひめ」まで到達してしまった。
驚愕のイチゴだから、来年からイチゴを農家から買い付けて、東京にレッスンに来るときに販売しちゃおうかと思ったりする。
朝摘みを仕入れて、そのままクルマで東京に来れば、東京に住んでいても「とちひめ」をフレッシュにいただける。
栃木ではいちご狩りもなされている。しかしながら、「とちひめ」クラスになると、いちご狩りで味わうのは違うんじゃないかって気がする。もっとちゃんとしたテーブルがあって、ゆっくりと部屋の中で食べたい。願わくば、高級なブランデー、コニャックを飲みながら味わいたい。
コニャックにイチゴは合うね。
上質なものをいちご狩りで貪り食うっていうのは美しくないし、何事も相応なものってある。
京友禅の着物を着てカレーライスやラーメンを食べないのと同じく、「相応」ってもんがあるんだよね。
栃木って正直なアタシの感想を言うと、料理文化は栄えていない。それは歴史的にそうだろうし、地理学的に、地政学的に料理は栄えないと思う。
しかし、素材はいいものがあって、野菜やイチゴ、そういった素材はいいものがある。
だから、栃木では料理のテクニックさえあれば、かなりのご馳走ができるというわけ。
さて。
人間関係って上質で、高級なほうがいいなって思う。
それは高い料理を食べたり、お互いに金をかけるという意味ではなく、互いの心が文化的で、高品質なやり取りができるという意味。
最悪な例をわかりやすく言えば、一緒に外食をしていて相手が前にいるのにスマホをいじってるとか、こういうのは程度が低い。
何のためにそこにいるのかを互いが理解している関係がいいんだよね。
ところがそういう理解をしないまま、ただ人付き合いをしているっていうケース、多いと思うのよね。
上質で、高級であること。
同時に色気があること。
色気が大事ね。色気がないとね、つまらない。だから長続きしない。
色気とは駆け引きであり、心に襞がないとできないんだよ。考え方が単調だったり、頑なすぎて受け入れる度量に乏しかったりすると色気は出ないから。
そう。つまり色気の対義語は「原理主義」だね。
さらに言えば「教条主義」。
原理主義になるよりも、教条主義になるよりも、堕落するほうがいい。
「義士も聖女も堕落する」(by坂口安吾)
いいね、堕落しよ。
「人間的な、あまりに人間的な」(byフリードリヒ・ニーチェ)
さて、考えてみれば、イチゴってとても色っぽい果物だよね。ぶどうも色っぽいけど、イチゴの色っぽさには敵わない。
だから、パンツの柄になるのかな?