結月でございます。
着付けを教えていつの間にか結構な年数が経ちました。
そして今日、ふとわかったことがあります。それは、
着付けの上手い下手は、字がきれいかどうかと同じ
ということ。
着物は楽しいだけでは釈然としない
着物は楽しんで着るものだから、楽しんでればそれでいい!という声もよく聞くのですが、それはもちろんそうだと思うし、それでいいと思います。でも、どこか釈然としないところがあります。
つまり、楽しいからといって、下手くそな着付けでいいのかな?と思ってしまうその理由には、下手な着付けは、汚い字を見せられるのと同じようなものがあるという点。
と言って、字に関してはわたしもひとのことは言えず、せっかちで関西弁で言う「イラチ」である性格が字にもにじみ出ていて、一画一画を丁寧に書いていくことができません。
しかし、下手な字と汚い字はまた違うもので、汚い字というのはちょっと不快に思うものです。
たとえば、封書に書かれた自分の宛名が思い切り汚い字だとあまりいい気はしないし、逆に実にきれいな字だと何だか気持ちがいい。
請求書など顕著で、請求書の宛名が汚いと金を払う気が失せてしまう。それはこんな非礼な奴に払うの嫌だなと思うからでしょう。
今は電子メールやLINEでのやり取りが主流なので、相手の直筆を見る機会が本当に少なくなりました。しかし、何かの拍子に相手の字を見て、それがきれいなものだとちょっと感心してしまい、
「ああ、このひと、しっかりしてるんだ」
なんて思ってしまう。
書道の領域まで行くと、字が表現になるので別の話になってしまうのですが、いわゆる楷書で普段使う字という意味で、着付けに通じるものがあると気づきました。
着付けはひとに見られることだから
本当に今はメールやスマホでの入力ばかりなので字を書くことも人の字を見ることも少ないですが、パソコンが普及する前の時代では、字が汚いと、
「字はちゃんと書きなさい!」
と、学校の先生や目上の人から叱られたものです。
デジタルネイティヴで生まれた頃からパソコンがある世代が書く字を垣間見たりすると、恐ろしく字が汚く下手くそで呆れ返ることがあります。
つまり、着物も普段着ないものになってしまったから、デジタルネイティヴの書く字と同じような状態なのでしょう。
着物は装いだから、それで外に出るわけで、要するに目立つ。たまに書く封書の宛名くらいならせいぜい見られても送り先くらいなものが、着物の場合は不特定多数にその姿を見せることになります。
そうなると、着付けは下手くそよりは上手いほうがいい、という話になってきます。
下手くそな着付けに一言言いたくなる心理も、字が汚いと、
「ちゃんと書きなさい」
と言いたくなるのと同じでしょう。
きれいな楷書のような着付けがいい
上手い着付けは楷書です。誰が見てもきっちりとした印象があります。わたしが教えている着付けも楷書であって、さらにそのマテリアルである着物が京友禅です。
楷書を書くに基本があり、それは揺るぎようのないものです。そこには楽しければいいじゃん!のような発想はなく、柔道を学ぶときには受け身から入るのと同じようなものです。基本は基本であって、楽しさを求める段階ではありません。
その基本が備わった上で、その人らしさが生かされてきます。それは字とまったく同じことです。
わたしくらいのベテランになると楷書を通り越して行書のような着付けを自分ではしています。
しかし、それも楷書ができるからこそであって、まずはお手本になるような楷書のような着付けが必要です。
落書きのような着付けはいけない
楷書を書こうと努力していながらもまだ下手くそというのはいいのですが、最初から楷書を学ぼうともしていない着物の着方をしているひとをネットなどでも見かけることが多々あります。
そうしたひとに限って「楽しければいい」という言い方をよくするようですが、そういうものを見て釈然としない気持ちになるのは、楷書を学んだ身としてはその着姿がまるで落書きのようであるからでしょう。
さらに着物のチョイスが奇抜な柄や色のポリエステル着物だったりすることが多く、落書き感が一層強くなります。まるでビルや電車に一面に書かれた落書きのようなものでしょうか。
落書きという行為自体は楽しいでしょう。している本人たちは楽しいに決まっている。でもそれは他者がみると、大変不快なものです。
日本人が着物しか着ていない時代の着付けはとてもいい加減でした。それは字を毎日書いているけれど上手くはないということと同じで、日常そのものだったのです。ですから、着物を毎日着ない今となっては、日常の下手さは学ぶ参考にはなりません。
それでも楷書の基本を試みて下手なのと、最初からそれを無視した落書きとは中身が異なります。
自分だけが楽しいものは美しくない
おそらく字を書くことを専門としているひとは、どんなに字を崩してはいても楷書の重要さを知っていることでしょう。
今は「自分が楽しい」がトレンドのキーワードで、確かに楽しいことは大切ですが、自己満足の領域を出ないものは美しくありません。そして、感心は得られません。
思わず一言言いたくなる着付けとは、自己満の度合いが強く、基本を無視しているものなのでしょう。
着付けには美しく見せる黄金律があります。それは民族衣装としてとても長い年月をかけて出来上がったもので、着物の着姿の美しさがそこにあります。
字がきれいなほうが好印象であるというのは、他者を想定しているからであって、着付けも同様です。
着物は形式美であるので、それを思いつきで破壊するような着物の着方は自由でもなんでもなく、ただ醜いだけなのかもしれません。