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浅野温子はよかった。

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結月です。

ふとつけたBSで昔のドラマ『101回目のプロポーズ』をやっていた。

江口洋介のロン毛が今見るとかなり笑えてしまったが、それ以外にも時代の違いを感じておもしろかったので第3話を全部見てしまった。

調べてみると1991年放映らしい。わたしはこの頃にはクラシック音楽に傾倒してしまっていたので、リアルタイムにこのドラマは見ていない。

今から思うと、クラシック音楽に行ってしまったことは後悔していないが、クラシックばかりだったのが失敗だった。もっとあの頃に流行ったドラマや歌をその時代の中で感じていればよかった。

TRFのEZ DO DANCEに感動したのはたった数年前で、ブームから25年経って初めて聞くという遅れぶり。

でも、小室哲哉がモーツァルト並の天才だということが心底わかるのは、クラシック音楽をやっていたせいでもある。その素養がなければ小室ファンだって小室哲哉のどこが天才なのかはわからないだろうから。

さて、およそ30年前の『101回目のプロポーズ』を見て、ああ昔はこんなだったよなと懐かしかった。

まず部屋が和室で襖があり、こたつ台があったり。

男女が誕生日祝いに誰かの部屋に集まったり。

社員食堂の雰囲気、そして女のファッション。

そして内容としては恋が大事で、物事を合理的に考えられてないこと。

今はみんな頭が小利口になりすぎて恋が成立しない。恋とは馬鹿でないと魅力にならないのである。

ヒロインの浅野温子はすごくよくて、こんなアタシだって当時の感覚を思い出して、惚れちゃったよ。

よく見ると美人でもないのに色気があるのよね。あの頃は女が目指すムードは浅野温子だった。

そしてロングヘア。さらにロングな田中律子。腰まである長い髪。

ああいう非効率的なロングヘアが魅力に見えたのは、当時は髪が長いと邪魔とかそういう効率的なことなんかより、色気が最優先されたから。

今はそういう女の色気が皆無になってしまい、漂うものがない。

そして当時は女優も美容整形していないからナチュラル。ちょっとね、今はみんなガチガチに整形しすぎて、美形の黄金律を得ているのかもしれないけれど、ナチュラルでなく色気がない。作り込んだ顔には色気は出ないものです。であるからして、浅野温子のように美形ではないのに魅力的で悩殺という人は今はいない。

ドラマのセリフも情念に基づいているから、今の小利口目線からするとただのアホなのだけれど、心情の駆け引きがあってドラマになる。

ああ、人間だなって思うわけ。

1991年はバブルはとうに弾け、80年代のような能天気さがなくなって、シリアスになり始めた頃。日本が迷い始めた頃。

でも、それでもあの時代はよかったな、なんて思い始めちゃ駄目?

スマホもないし、携帯もないし、固定電話でみんな恋してた。時間の流れがゆっくりで、合理性よりも情の時代だった。

コロナがあったからってのもなくはないけれど、1991年のドラマを見てあの頃のほうが楽しかったなと感じてしまうのは、やっぱあの頃のほうがまだ日本は楽しかったのだと思う。

ドラマではどういうわけか登場人物たちが同じバーに通っていて、偶然とは言えないくらい頻繁に出会う。これは『男女7人夏物語』でもそうだった。現実にはないはずなのに、そういうバーがなんとなく大人の場で、恋の駆け引きの場になる。

多分、わたしがバーが好き(だった)のは、そういうトレンディドラマの影響があるに違いない。

そして、当時のトレンディドラマは視聴率が高かったので、多くの人がそれを見て、そこに描かれた恋や仕草、セリフを取り入れていて、現実でバーに行っても恋はトレンディドラマのセリフが普通に引用されるだけでなく、その展開もトレンディドラマ的に進められた。

今はそんな焦ったい恋は成立せず、告白して断られるにしても、

「マジ、うざい」

と一蹴されたりする。

恋人、あるいは結婚相手はマッチングアプリで出会うようになり、いきなり互いの情報開示が行われる。浅野温子の頃はそういった情報がないから、探り合うのが恋だった。

さて、90年代のドラマには傑作が多いけれど、わたしにとってはなんと言っても『高校教師』である。

これは93年放映で『101回目のプロポーズ』と同じく脚本は野島伸司。

たった2年の差でドラマがさらにシリアスになる。日本が暗くなっていく進行の中にいた。

しかし、『高校教師』はDVDで軽く30回以上は繰り返し見ているけれど、あの桜井幸子は奇跡と言えるくらいに魅力的だった。

わたしだってあんな桜井幸子となら、もう一緒に死んじゃう。一緒に電車の中で毒飲んで死ぬ。

とはいえ、桜井幸子は『高校教師』以後はさっぱり良くなくて普通。もともと女優の才能はないタイプだから、脚本とのドンピシャがないと映えない。『高校教師』の二宮繭にこそドンピシャだったのである。

ともかく、女優に限らず、女が整形手術をやるようになってからナチュラルな色気というのは絶滅してしまって、設計図通りに狙った表層だけの顔ばかりで、要するにみんな同じ顔になった。

新しいことを考えてそこに挑戦するおもしろさ、そういうのが大事で、人間はそうやって進歩的であるべきだとは思う。わたしも仕事ではそういう試みをやりたいと思う。

しかし一方で今の時代の窮屈さがものすごく鬱陶しく感じられて、新しい試みが生かされるのだろうか?と疑問に思ったりする。

発想が新しくても社会が窮屈だと受け入れられないわけで、新しさとは新興な社会がよろしく、社会が落ち込んでいって、躍動がなくなるとたちまち挑戦は無理ゲーになる。

そんな気持ちがあるから、80年代や90年代初頭を見て、

「あの頃は楽しかったよな…」

なんて思うのかもしれない。

さて、ようやくコロナも5類扱いになりそうで、マスクもなくなりそう、というか店先に貼られた「マスク着用のお願い」のポスターもなくなりそうである。

感染対策とはかけ離れたところまで日本人が異様にマスクをするのはそれは今の日本人だからではないか。おそらく80年代や90年代初頭の日本人なら同じ環境にあってもここまではマスクをしなかったように思う。

昔はほどよくいい加減だったし、ノリの良さがあったし、細かいことにうるさくなかったし、コンプライアンスなんて言葉もなかった。

異様なまでにマスクする日本人の姿に今の日本人のメンタリティが可視化されたな、と思う。

こんな窮屈じゃ、前進的な気持ちになれやしないし、新しい事業が出てくる土壌にはならない。だから、社会に元気がなくなる。

だからこそ、今頃になって『101回目のプロポーズ』はわたしには映えて見えた。

でも、80年代と90年代初頭を経験できてよかったなと思う。今の中学生くらいなんて気の毒で、社会の躍動を知らないし、入学と同時にコロナでマスクを強要され、友達の素顔も見ないうちに卒業する。

もちろん当事者だから過去を知らず、今の事象だけの経験だから比較できないから自分が気の毒だとは思わないだろう。

いや、あの頃は本当は今から考えるとひどいことがまかり通っていたのである。今はそんなひどいことは摘発されたり、ネットで炎上したりするからなくなっていい時代になったのかもしれない。

ただ、その代わりに「明るい楽しさ」は失ったけれど。

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