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身内に嫌われると損

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結月でございます。

昨日発見してしまった「特殊清掃チャンネル」。同じように特殊清掃をしている別の会社もYouTubeに動画をアップしていて、今日も2時間くらいは動画を見た。

孤独死の壮絶さはどこも同じであるけれど、ゴミ屋敷化した部屋から出てくる遺品を見ていると、その人の人生が見えてきて、どんな純文学小説よりも人間が描かれている気がした。

家族がいるにはいるけれど、絶縁状態で数年経っていたりするケースも珍しくなく、一人暮らしのまま孤独死する。

娘や息子にキツく当たっていて、その結果奥さんにも逃げられ、子供たちにも逃げられ独りになる。

あとは定年後のバイト先でうまくいかず鬱病っぽくなって引きこもりになるなんてこともある。

しかし、意外と孤独死は珍しいものではなく、多くの人にその可能性があるとわかった。

体は健康であっても一人暮らしの老人はたくさんいるし、健康であると身内からも心配されないからそのまま独りで寿命が尽きてしまうこともあるだろう。

病気を持っていても入院する状態ではなく、投薬によって自宅療養している場合も孤独死につながる。

これからますます家族は分離していくから、孤独死は増える。昔のように大家族のまま過ごすなんてことはあまりないのだから。

というわけで、わたしも将来は孤独死の可能性を秘めていて、そもそも人付き合いが好きじゃないし、ひとりでいるほうが好きだし、コミュニティに参加する気持ちはないし、ということは体が健康であってもなくても独りであるから孤独死しそうである。

とはいえ、孤独が好きだから孤独であることに精神的な辛さはなく、孤独に死んでも悪い気分でないが、特殊清掃の生々しい現場を見ると死後数ヶ月経って自分の体が液状化してしまうのは他人に迷惑な話で、それは避けたいなと思う。

やはり死ぬまで何かしらの仕事をしているのがいいわけで、それも年寄り扱いされない自営業がよろしく、これが雇われバイトだときっと精神が病んでくる。

だから、起業精神は死ぬまで持ち続けると決意し、そのために肉体を維持する。そういう気持ちで生きていれば、そんなにひどいことにはならないのではないか。孤独死の多くはサラリーマンで、定年後に行き場を失って独りになるわけだから、社会に対して常に好奇心を持っておくことが大事なのである。

さて、自分のことはなんとかなりそうに思いつつ、うちの父はもし母が先に死んだら孤独死するだろうなと特殊清掃チャンネルを見ながら思ったのである。

なぜから、わたしが面倒を看る気が無いから。

京都にわざわざ行く気もないし、あんな性格の老人なんか扱えない。無理なものは無理なのである。

これはもう皮膚感覚的なもので、理性が入り込む余地はなく、嫌だから嫌。

それに地域と関わりを持たない典型的な定年後の男であるから、母がいなくなれば孤独死は確定的である。ああいう男は特殊清掃チャンネルを見たほうがいい。

わたしは父が液状化していてもおそらく何とも思わないだろうし、ただ「めんどくせーな」と痛烈に不機嫌になることだろう。

今ですら京都の実家には行きたくないわけで、なぜなら気を利かせて行っても毎度のことながら気分が悪くなるだけで、どうしてああいう態度しか取れないのだろう?

わたしは人間というのは年を重ねることで人間に対する認識が深くなるものだと思っていたが、どうやら深くなる人は少数らしい。

しかし、父が人間的に悪いわけでもない。態度が悪いのである。確かに父のおかげでやらせてもらったことは子供の頃から遡るとあるのはわかるが、それを覆すほどのクソぶり。自分の功徳を自分で打ち壊す愚かさ。

プラスよりマイナスが大きいがためにトータルするとマイナスになるという算数ができていない愚かさ。

別に恨んじゃいないが、単に面倒だと思うわけで、ここまで冷淡になれるのは絶望以上の関心のなさなのである。

やはり人間は自分を省みなければ駄目だ。どんな人間だってクソな部分はあって、対人関係で失敗もある。それを省みれば自分を修正できるわけで、それを繰り返すことで人は成長する。しかし、省みなければ成長はしない。そんな人間と付き合おうなんてお人好しはそうはいない。

そして人への感謝は言葉にしないと駄目だ。いくらハートの中ではそれがあっても言葉にしないと伝わらない。それは愛情もしかりで、言葉として口にすることをしない人間は理解を得られない。

というわけで、母が先に死んだら父は孤独死確定で液状化して床に染みを作る。

母は性格がいいから面倒看てもいいかと思うが、父の駄目さを本人にしっかりと言葉で言えない奴隷根性的なところは臆病だなと思う。

自分でその行動をしないでわたしに要望されても困るわけで、もっと主体的に生きてほしい。おそらくその臆病さは「卑怯」とも言い換えられる種類のものでないか。

とまあ、どちらも孤独死液状化の可能性はあるけれど、考えてみればそれもその人の人生とも言える。いくら凄惨で、強烈な腐敗臭を発しようが、そうなった結果はその人の行いの結果なのであって、

「そういう人生だった」

と、一言で集約できるのかもしれない。

「そういう人生だった」は孤独死をしなくてもすべての人に共通するもので、どんな死に方をしてもそれが生の終わりであるのだから、そういう人生だったのである。

違いがあるとすれば、自分の人生を自分の行動でデザインして生きていたか、いなかったかという点。

特殊清掃チャンネルの孤独死はどう見ても自分の人生を自分で描けていない人ばかりだ。

この違いは重要で、たとえ孤独死をしても自分の主体でしっかりと生きてきた人であれば周囲はちゃんと評価してくれる。しかし、自らの主体性を怠って生きていると、ただの腐臭を放つ液状化した遺体である。

さて、人には様々な死があるが、コロナがきっかけで死んでしまった高齢者は考えようによっては幸せかもしれない。孤独死の現場を見る限り、そう思える。

いきなりの死ではあるけれど、コロナであればちゃんと病院で死ねるし、火葬もしてくれる。誰にも見つからないまま液状化するよりかはずっといい。

コロナウイルスも見方によればいい側面もある。問題は人間がそれをどう捉えるかだ。人を生命的な危機をもたらすものとして考え、それを食い止めようとするのが医療的な考えだろうが、もっと人の生を広く見れば孤独死したであろう人がベッドで死ねたという見方もできる。

もちろんそれがすべての人に適応はできないけれど、おそらくコロナのすべてが悪でない。

ともかくコロナでも孤独死でも、身内に嫌われないほうがいいということは言える。

身内は良好な関係だと手厚くやってもらえるが、身内に嫌われるとクールに絶縁である。どんな悲惨に陥ろうとも皮膚感覚的な拒絶でもって相手にしてもらえない。身内という関係はそういうものだ。

死を見つめるからこそ生に真剣になれる。その真剣さがないと人間なんて孤独に死んで液状化し、特殊清掃としてゴミ扱いされるだけなのである。

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