結月です。
すごいYouTubeチャンネルを見つけてしまった。それは「特殊清掃チャンネル」というもので、孤独死が起こった後の部屋を清掃する業者の解説付き作業風景で、究極のドキュメンタリー。
わたしは日本映画学校時代にドキュメンタリーの作り方を実習でやったりしたが、今はYouTubeがモノホンをリアルにやるから、ドキュメンタリー作品は作る意味もないし、作ったところでYouTubeには敵わない。
と、特殊清掃チャンネルの動画をいくつも見入ってしまったわけだが、すごいのは玄関で倒れてそのまま死亡したケースで、茶色い体液が扉から外に漏れ出しているもの。扉を開けると、そこには頭がくっついていたことを物語る丸い染みが残り、数センチに及ぼ体液が残っている。
それを清掃していくのだから大変な仕事ではあるが、さらに得てして孤独死の現場は壮絶なゴミ屋敷になっているケースがほとんどで、それも片付ける。そして消臭・脱臭作業。
畳にはまだ蛆が這っていたり、ハエが飛び交っている。そこにコロナ以上の防護服で乗り込む。
ともかく、孤独死の現場がゴミ屋敷という点にわたしは興味を持った。たった一人で高齢になって体も動きにくいためにゴミ屋敷化するとも考えられるし、もう一つの仮説はゴミ屋敷化するようなメンタルな人ほど孤独死するのではないか、ということ。
灰皿にタバコの吸殻が山盛りになっていたりと、とにかくだらしがない。そしてペットボトルや太田胃散の間に1円玉や5円玉が敷き詰められていたりと、意味のない貧乏性が観て取れる。
どれも腐敗臭が強烈な現場だけれど、人の死に関心があるわたしとしては大変興味深いチャンネルだった。
そして、緩和医療医師の大津秀一先生の人の最期の7つの兆候というYouTubeにもリンクして見たのである。人が死ぬその時を2000人以上も見てきた医者だけあって説得力がある。
さて、わたしは最低でも1日に一度は自分がどのように死ぬのかを考える。どのように死ぬかは結果はひとつであるから今、思い巡らせているのは想像に過ぎず、どうなるかはわからない。ただ、その瞬間に今まで生きてきたことに後悔はしたくない思いは明確にあって、だからこそ最期に後悔しないように生きるように心がけている。
そう考えているものだから、高齢者になっているのに毎日テレビを見て過ごす自分の親のことも正直、軽蔑している。
もし自分がその年齢になったら残された時間の少なさに、きっと今以上に懸命に生きようと思う。さすがにくだらない番組を見て日々を過ごそうとは思わない。
とは言え、かく言う自分だって、このままじゃ後悔しそうだな、という気はする。やりたいことを全然やれていないと思うからである。
意外とアタシの人生、つまんないかも…とも感じる。
だから、大きな公演なんかもやるわけで、でも去年も今年もやったとはいえ、もっとやれることはあったという思いはかなりある。
それは時間的に無理だった事実もあれば、発想とは逆境のゆえに出てくるものだから、発想が出てそれを実現するのにタイムラグが発生するから達成できない理屈がある。
それゆえにコンサートの来てくれた人から、
「よかったですー!」
なんて言われてもわたしはあまり嬉しくなく、いや、もっとやれることがあったはずで全然よかったとは思っちゃいないんだけどね、と些か不機嫌になっている。
自分は満足していないから、称賛もすべておべんちゃらに聞こえる。
しかしながら、演奏としてはわたしがプロデュースしたすべての公演は素晴らしいものだという自負はあって、当然それは演奏者たちが素晴らしいから。
そして、わたしの思いが演奏者にも伝わっているかなともちょっとは思う。
でも、興行として、もっとやれること、もっといい方法があるはずで、そういう意味ではことごとく失敗している。
もしかするとそれにはゴールがなくて、そもそも100点満点なんてないのだから、実行するというのは同時に不満足を生み出すものなのかもしれない。だから常に不満足で、ゴールがない。ゴールがあったら、それは辞めるときだろう。
ただ、コンサートに来てくれた人たちがものすごく感動していたり、喜んでいるのを実際に見ると、いい行いはやったなと自覚する。このコンサートの感動が、その人の最期に感じられる幸せの一つになればいいと思う。
生きてきて嫌なことも面倒なこともたくさんあったけれど、あのコンサートは感動したなって思えればいいんじゃないか。
演奏者も同様で、最期に死ぬときに自分の演奏家人生の中で思い出深いコンサートだと振り返られればいいんじゃないか。
だから公演は真剣にやらないといけないし、それゆえにわたしは「業務」的な演奏、業務的なコンサートを嫌っていて、業務的にならざるを得ないプロオーケストラの仕組みはよろしくないと思っている。
ともかく、わたしとしては公演をやって多くの人に感動を与えられれば自分が死ぬときに納得できる気がしていて、どこまでやるかはわからないが公演は続けるつもりでいる。
とはいえ、それも時代は変化するし、自分の行いが時代に合わなくなった、時代に求められなくなったら潔く辞めて、また違うことをやる。
さて。
わたしは奥日光の自然の中でひとりでひっそりと、奥日光の空気を吸いながら、奥日光の木々を眺めながら死ねればいいなと夢見るのだが、大津秀一先生の話を聞いてどうやらその夢はかなり不可能に近いとわかった。
奥日光でひとりで死ねたとしても孤独死をして数ヶ月発見されず、体の輪郭はなくなり体液だけになったなんていうのは特殊清掃チャンネルのお世話にならねばならず、どうやら病院で死ぬのが最もきれいだと知った。
ゴミ屋敷の孤独死を見ると、人間というのはきれいに死ぬのがいいのである。できるだけそれを目指すべきなのである。
腐敗臭ぷんぷんのまま、さらにその激臭を周囲に漂わせ続けるなんていうのはきれいじゃない。
しかし、人間嫌いだし、引きこもり体質だし、老年になって大きくなった愛娘の厄介になりたくないし、ひとりで過ごしたい。となれば、
「まずい。わたしは孤独死で液体化するかも?」
と、思いつつ、ひとまずは死ぬその瞬間に後悔しないように生きよう。