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昔のことを思い出すようになった年頃

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結月でございます。

うちの愛娘が6歳に近づいてきて、つまり2歳になる前に育児のために急遽、東京を引き払って栃木に来たから、もう栃木在住が4年近くになる。

2歳になる前は週に一度しか会わなかった愛娘も今は保育園の時間を除くとずっと一緒という生活であり、次第に大きくなって言葉もよく通じるようになってくると「娘」というより「妹」に近い感覚も出てきた。

そんな保育園児と一緒にいると、自分が子供の頃を思い出すようになる。ちょっとしたときに忘却の彼方にあったはずの記憶がよみがえってくる。

例えば、歩道を手を繋いで歩いていると、5歳児は路面のブロックをケンケンパーをするように歩く。するとこちらは結構歩きづらくて、

「ちゃんと歩きなさい」

と言う。

するとその瞬間に、わたしも子供の頃に母に同じことを言われた記憶が脳裏に表れるのである。

この間は真夜中にいきなり奥日光まで車を走らせた。夜の国道を走っていると、小学生くらいの頃、同じように真夜中に父がよくバス釣りに連れて行ったことを思い出す。

すでに眠っているわたしを、

「おい、釣り行くぞ…」

と父が起こす。すると、わたしは眠い目をこすりながら服を着替え、釣り道具を持って車に乗る。よく行ったのは大阪の四條畷にある「室池」という場所だった。翌日が日曜で休みの時は琵琶湖まで出かけた。

室池に行くための夜の国道1号線の風景。それを奥日光に行く中で思い出した。

父は夜中によく起きる人間で、よくわたしを起こして釣りだけでなく、ドライブインに食事をしに行ったりしたものだ。

日曜日は京都や大阪に映画を観に行ったり、京都市立美術館や近代美術館には展覧会のたびに行った。その近くには「ギャラリーココ」という現代作家の版画を扱う画廊があって、入り浸っていた。小学生の頃から画廊で過ごし、画廊の店主の絵画談義を耳にしたものだった。

とにかく家にじっとしているということはあまりなかったので、父の趣味によっていろんなところを連れて回されたのである。

自分がそうだったから今はわたしが愛娘を土日は連れ回している。休みの日に一日家にいるなんてことはまずない。車で遠出している。

それが追体験になって自分が子供の頃を思い出す。

京都の美術館は平安神宮があるあたりで繁華街からはちょっと遠い。でも京阪三条からいつも歩いていた。その途中に「木村屋」という小さくて古い食堂があり、美術館へ行く時は必ずオムライスを食べた。古いけれどよく掃除されていて、通りからのれん越しに陽光が少しばかり入り込んでくる。とても静かな食堂だった。

繁華街は三条と四条河原町。新京極周辺で映画はよく観たし、食事もする。

三条河原町では中華の「ハマムラ」にもよく行った。小さな店だったが老舗である。その河原町通りから新京極に入る路地にはラーメンの「第一旭」があった。あとは新京極と並行する寺町京極にすき焼きの「キムラ」がありそこにも時折行った。

遊び終わって帰るとなると、家で待つ母のために新京極の四条への出口付近にある「ロンドンヤ」でロンドン焼を買って帰る。この店は今もまったく変わらない。

大阪に映画を観に行くときは、難波が多かった。食事は織田作之助で有名な混ぜカレーの「自由軒」。しかしそれよりも「インデアンカレー」であって、この本店は終戦直後からある店でカウンター席が8席ほどあるだけ。今は東京・丸の内にまで出店するようになったが、やはりインデアンカレーは難波のこの店に限る。

千日前では吉本新喜劇をよく観に行った。まだ「なんばグランド花月」ができる前で、なんば花月だった。

その頃は岡八郎や船場太郎、そして木村進(博多淡海)が座長を務めていた。「中田カウス・ボタン」や「こだま・ひびき」の漫才を見たりしたあと、メインで新喜劇が始まり笑いこける。

そう言えば、新喜劇はまだうめだ花月もあったし、京都花月もあった。

なんか知らんけど、おもろくて、おかしな奴が舞台にひっきりなしに出てくる花月だった。思えば、いつも笑いがあった。上方は笑いである。

道頓堀からそのまま心斎橋まで歩く。戎橋筋と心斎橋筋は道頓堀でつながっている。

心斎橋では三木楽器やヤマハで楽器を眺めたりしていた。

そう言えば、先日、宇都宮東武百貨店で551蓬莱がイベント会場に出店していて、愛娘を連れて豚饅を買って帰った。蓬莱の豚饅は実に久しぶりである。

難波の戎橋には蓬莱の店があった。父と店で食べることもあったし、豚饅を買って帰ることもあった。その近くにはペンギンがトレードマークの「北極アイス」である。アイスは551蓬莱も出していて白熊の絵が書いてある。アイスとしては蓬莱のアイスのほうが高級で、上質な味である。

しかし、わたしは安っぽいけどハンドメイド感のある「北極アイス」が好きでなのである。これをドライアイスを詰めてもらってこれまた母が待つ京都まで持ち帰る。

難波で忘れてはならないのが「正起屋」の「とり弁」である。ここは焼き鳥と合わせて「とり弁」が絶品である。なんばCITYにもあったし、梅田にもある。父とはよく「とり弁」を食べたし、高校になって大阪に行くようになって友達もよく連れて行った。

それはそうと、高校時代のことがあまり記憶がない。ないことはないが、小学生や中学の頃の記憶のほうが鮮明である。

母校のことは好きであるのに思い出が断片なのである。そして大学の頃の記憶もよく憶えているのに高校だけが抜け落ちたように記憶が薄い。

これも愛娘が高校生になったら、それが呼水となって思い出されるのであろうか。

今まで昔のことは興味もなく、思い出すこともなかったというのに愛娘がいることで人生を二度目をパラレルで生きているような感覚になる。

間違いなく愛娘がいなかったらずっと思い出すこともないままだっただろう。

とは言え、昔を懐古するわけもなく、昔がよかったとも思うわけもなく、未来のことを考えて日々生きていることは変わりがない。ただ、ちょっとしたときに過去を思い出すだけなのである。

過去に酔うほど暇でないし、思い出したところで戻れるわけもなく、終わったことにすぎない。

しかしながら、今の自分の行いのルーツみたいなものがわかる瞬間がある。

愛娘を連れて出かけてばかりいるのは父がわたしにしたことであるし、行きつけの店に入り浸り、浮気をしないのは今も同じである。

自分のトークや笑いのノリは上方漫才や吉本新喜劇から得たものであるし、映画批評だって映画を観た後に父と観た映画をあーだこーだと言い合ったことによる。しかもノリは上方漫才である。

京友禅の仕事を始めたルーツも子供の頃にあった京都の振袖の色彩が記憶にあったせいに違いなく、さらに言えば京都の美術館でおびただしく観た日本画に描かれた着物の美人画だった。

そしてパリを愛しているのもパリが描かれた絵画を見てきたせいであり、佐伯祐三はその筆頭である。また美術館で見てきた後期印象派から20世紀の画家たちはパリで活躍していた。子供の頃からパリは憧れの地だった。

愛娘が美術館やコンサートがわかるようになる年頃になるのを待っている。そうすれば週末のお出かけの選択肢はグッと広がり退屈しない。まだちょっと小さすぎて、お子様路線である。

パリにも連れて行きたいが、まだ行ったところで何もできやしない。早くて小学生高学年くらいであろうか。

その頃にはわたしのパリの記憶が思い出されるのだろう。

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