結月です。
「演出っていうのは加害者ですよ。自分のやりたいことを人にやらせてる」
と、映画監督の宮崎駿が言っていた。そうだなって思う。
映画っていうのは特にそうで、役者に演じさせる。監督は加害者であるから、役者のほうが泣き出しちゃったりなんてことはよくある。
とはいえ、今は監督の力が弱くて、出演するアイドルのほうが立場が上であることが多く、監督がアイドルにお願いするような現場で、それにスケジュールが忙しいアイドルだから撮影時間がほとんど撮れず、下手な芝居でも「オッケー!」を出すことになる。
黒澤明とか溝口健二とか、日本映画の黄金期と違うところはそこで、昔の映画は監督が思い切り加害者であった。だからすごい映画ができていた。
今は「みんな、仲良く」な時代で、だから言いたいことをズバッと言うのでなく、相手を傷つけない配慮で人間関係が進んでいく。
きっと宮崎駿の映画に力があるのは、宮崎駿が「みんな、仲良く」なんて考えていなくて、徹底して加害者であるからだろう。
そういえば、この間、指揮者の大植英次さんに会ったとき、大植さんは「今の時代はすごい指揮者が生まれてなくて、どん底ですよ」といったようなことを言っていた。
指揮者の歴史を見ると、20世紀はどんでもない指揮者がゴロゴロいた時代で、フルトベングラーはもちろん、カラヤン、バーンスタイン、ベーム、カルロス・クライバー、もう列挙するとキリがないくらいすごいのがいる。ソ連にはムラヴィンスキーという強烈なのがいた。
しかし、今の巨匠も生きているのは20世紀時代に抜きん出た人たちであって、21世紀からではない。
そう考えると、21世紀の指揮者は小粒感が拭えない。
いろんな原因があろうが、ひとつは加害者でいられにくい時代だからじゃないだろうか。加害者であると非難されがちだし、パワハラと言われそうだし、だから加害者モードの演出は人がついてこない。
それに伴って、オーケストラも民主的であるのがトレンドで、仲間意識が強いように思う。ギラギラした下克上感がないというか、民主的なのである。
そのせいだけとは言えないが、オーケストラにドギツイ個性が薄れたのは確かで、大昔のベルリンフィルやウィーンフィル、さらにレニングラードフィルの録音を聴くと「ギョッ」とするものがあるが、今は平均的であって、キャラが突き抜けていない。
しかし、それは音楽だけでなく、政治だってそうだし、自動車もどのメーカーもあまり違いがない。
ネットによって情報が瞬時につながり、情報が平均化したせいもある。
要するに極端なものが少なくなった。
宮崎駿みたいにパワハラが言われる時代に「演出っていうのは加害者」と言えるところが、やはり極端で、だからこそその映画は独特なものになる。
しかしながら、平均的なものが世の中を変えていくか、社会を進めていくか、世界を新しくするか?と考えると、それはない。平均的なものは平均だからそこまでのエネルギーがない。
「仲良くする」というのは平均的になることだ。10という極端と0という極端を5という平均にする。
仲がいいのは悪いことでない。仲良くしようとすることがつまらない。無用な衝突は避けたほうがいいが、すべての衝突を避けようとする行いは「仲良くしよう」とすることで、抜きん出たものは作れやしない。
仲良くしようという民主的な傾向。そして加害者は否定される。
なるほど、これではド級の演出家は出てこない。
だから、芸術に「怖さ」がなくなったように思う。映画だって凄味のある作品はほとんどない。
現場の人間関係が穏やかであることが目的になって、作品が二の次になる。
とは言え、加害者であるためにはずば抜けた才能があることが条件で、おそらくは社会の中ではずば抜けた才能もない人が立場的なものだけでパワハラをするから問題になるのだろう。
さて、人付き合いが苦手なわたしは「仲良くしよう」という風潮がどうも生きにくい。ピンポイントに好きな人が相手だと明るく振る舞えるのだが、3人以上集まると気が病んでくる。ましてやそこに仲良くしよう的ムードになると仲良くどころか憂鬱になってきて、早く家に帰りたくなる。
しかし、わたしのようなタイプはたくさんいるはずで、世の中の仲良くしよう的ムードに隠れていて、実は病んでいるのではないか。
そう考えると、みんなで仲良くという風潮は加害的なのかもしれない。
加害する相手に才能があれば納得できるが、相手は集団であり、雰囲気である。そこに才能なんてありやしない。
平均化という加害。
平均化させられるなら、そんな風潮はぶっ壊しちゃえ。
わたしはそう考える。
だから、人付き合いが苦手なのである。