結月です。
先週からの全身筋肉痛は収束が見てきたものの、両腕と両肩の痛みはまだ残っていて相変わらず握力は乏しい。
ジェネオケ公演のチケットを申し込んでくださったお客様には入金確認後、すぐに発送するようにしているから、力の入らない右手でなんとか宛名を書いて投函した。
幸い、右手は左手よりも症状がマシであって、もしわたしが左利きなら字はまるで書けない。
しかし、昨年から採用したパイロットの「ジュースアップ」というボールペン。これがあったから助かった。
これは水性顔料ゲルインキボールペンで、ボールペンなのにまるで筆のような感覚で書くことができる。筆圧をかけなくても字が書ける優れもので、お値段も150円ほどなのに上質感たっぷりな書き心地。
普通のボールペンだとまだわたしの右手では字を書くことはできないが、ジュースアップのおかげでなんとかなった。
わたしはこれの0.5mmを使っていて、パイロットの技術力に脱帽している。
ちなみに万年筆も中学生の頃からペリカンを使っていたが、銀座の伊東屋でパイロットの蒔絵シリーズに出会ってしまってから、ペリカンは使えなくなってしまった。それだけパイロットの万年筆が見事すぎたのである。
とまあ、まだ不自由が残る体であるが、太腿の痛みはすっかりなくなって歩くのには苦労しない。
とはいえ、首から手先までが横紋筋融解症らしいからどうも集中力が今ひとつというか、眠くなりやすい。
そこで乳酸を撃退しようと、今日は酸素カプセルに入ってきたのである。
酸素カプセルは銀座にいた頃、ちょうど同じ3丁目にエアープレスがあって、一時期よく通っていた。ここは週プレ元編集長の島地勝彦さんから紹介してもらったところだった。
そんなことを思い出しながら、7年ぶりとなる酸素カプセル。栃木の田舎なのに近所に酸素カプセルが1台だけあるのを見つけ、早速行ってみた。
お値段は50分で1200円で、東京の相場の1/3から1/4である。
酸素カプセルみたいなものは都会的なものであり、第3次産業の中でのストレスが求めるものであるから、第1次産業や第2次産業が多い田舎ではあまり求められない。
久しぶりの酸素カプセルだが、モードは「高圧」にしてもらい、50分間、高圧で酸素を吸いまくってきた。
酸素カプセルはスペースもののSFに出てきそうなカプセルだが、閉所恐怖症の人はちょっと無理であろう。
わたしみたいに引きこもり体質の人間は、むしろカプセルで寝ることが心地よく、願わくば家でもこれで寝たいと思うくらいである。
さて、効果はというと、正直、あるのかないのかわからない。握力が戻ったわけでもなく、肩も腕もまだ痛い。しかし、ちょっとはマシになった気もするもプラセボとも思う。
そもそも酸素を多く取り込んだところで、いきなり劇的に回復するなんてあり得ない話だからこんなもんであり、まあちょっとは乳酸が分解されたかなと思いたい。
それに筋肉の酵素が流れ出すという横紋筋融解症は乳酸は関係ないかもしれず、気分的ないい加減さである。
ただ、酸素カプセルにでも入りたいと思うほどキツい、なんとか早く回復を見込みたい、そういう気持ちである。
しかし思い起こせば、銀座で酸素カプセルに入っていた頃、酸素を取り込んだあと、島地勝彦さんと広尾のイタリアンでスパイシーハイボールを飲んだが、いくら飲んでも酔わず、頭はスッキリという奇妙な感覚を体験した。
タリスカーのハイボールがまるでただの炭酸水のように飲めてしまうので、酔わないお酒はこんなに寂しいものなのかと思い、飲む前は酸素カプセルは入らないほうが楽しめると知った。
とはいえ、こういうものは効くか効かぬかというより、流行り廃りの世界であり、酸素カプセルはちょっと古いなという気もしなくはない。
要はタピオカに似たようなもので、思えば20年近く前は酸素バーなるものが流行った。
時代は常に変化していて、例えば2016年くらいまでは女の感性が時代を作っていたが、コロナ前くらいからはっきりと男時代になり始めた。今は女の感性はあまり評価されず、合理性や要領の良さが重要視される。
それに応じて「美」の終焉を感じる。美しいものへの評価価値が下がった。これから10年、いや20年は芸術にとって受難、というか相手にされない時代が続くだろう。
好き嫌いに関係なく、時代は変わっていくものである。
自分が好むものが廃れていくのは辛いというか腹立たしい気持ちになりがちだが、わたしはもうそこには執着しない。それを廃れていくのと食い止めようとも思わないし、眺めていようと思う。
美が評価される中で生きていたいと思うけれど、無理なものは無理だから。