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極端なものがおもしろい

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結月でございます。

久しぶりに、ものすごく久しぶりに葉巻を吸った。

先月、宇都宮にあるシガーショップに5歳の愛娘と一緒に買いに行った葉巻。それを加湿するために濡らしたティッシュと共にタッパーに入れておいた。葉巻ほ程よいお湿りがないとあのまろやかさが出ないため、「育て」るのである。

そんなロメオの2番という葉巻。

葉巻を吸うと頭がぼうっとなってきて、それでいて感性が優しく覚醒する。すると、感受性が高まって、アイデアも滲み出てくる。

葉巻を吸うときはいつも音楽をかける。これまた久しぶりの「第九」にした。ジェネオケで12月にやるのだから「第九」を改めて聴いてみよう。

クラウス・テンシュテットの「第九」。テンシュテットの第九はもはや危険走行というくらいの爆裂ぶりで何度聴いてもぶっ飛ぶものすごい演奏なのである。

でもね、ジェネオケの「第九」もものすごいよ。大植英次だから何が起こるかわからない。確かなことはものすごい演奏になるということ。まだ音は出していない生まれたばかりのジェネオケだけれど、ものすごい演奏になることは確定している。

メンバーもエキサイティングだし、合唱は東京オペラシンガーズだし、ソリストも国内トップの歌い手ばかりだし、そこに大植英次。

さらに旗揚げという初公演。

さて、テンシュテットの第九を聴いたりしていると、要するにテンシュテットは極端なんだよね。その極端がおもしろい。

そして、ジェネオケ旗揚げ公演でヴァイオリン独奏をしてくれる神尾真由子も極端な人で、大植英次も極端な人。わたしはそう思っている。

他には類を見ない極端さがあるからこそ、一緒にやりたいと思うヴァイオリニストであり、指揮者なのである。

他に抜きん出て突き抜けるのは極端でないと成立しない。極端だからこそ突き抜ける。平均的なものは埋もれるのであって突き抜けない。

大きな仕事、大きな実績、大きな魅力、そうしたものを生み出しているのは総じて極端なものばかりである。

そして、極端な人たちの共通項は、他人の目線で生きていないということ。他人の目線を気にした時点でその人は極端ではない。

最近になってジェネオケは極端なものかもしれない、と思い始めた。

それはインタビューなども含めて、いろんな人の話を聞くと、なんだかジェネオケは普通じゃないっぽい。いきなり第九なんて無謀だと思っている人もいるかもしれない。

わたしには第九が年末の風物詩になって、まるでクリスマスケーキやおせち料理のように第九が販売され、注文される日本の特異な現象にムカついていた、というか、

「それ、違うだろ?」

と思っていた。

第九はそんな曲じゃないし、どこのプロオケも第九をオケの収入源として扱っている。合奏団を公募してやるビジネスモデルもそのためだろう。

ともかく、プロオケが12月に1団体で何公演も数をこなすのはおかしなことである。どこのオケも第九をやるものだから、12月は第九だらけになる。

ジェネオケを立ち上げて、そんな第九ラッシュに会員組織もない新規のオケとして第九を選んだのは、ジェネオケの第九は年末行事なんかじゃねーよ、という意味を込めたもので、ベートーヴェンの交響曲第9番を音楽としてガチンコで真正面からやりたかったからである。

だからジェネオケとしてはこの1回しか第九はやらないつもりだし、本来ヘヴィーなこの曲を年末のお約束の扱いはしたくない。そういう意味で、日本のこの風習に殴り込みをかけたかったのである。

もしかすると、そういう考え方って極端なのかな?と思い始めた。

でも、わたしは極端をやろうとしてやっているわけでなく、自分がおもしろいと思うことをやっているだけなのである。

そして不満があるからだろうか。クラシック業界に「何やってんだよ」と思うこともあるし、もっと新しいアプローチをやらないと10年後はクラシックファンなんて大半が死に絶えてるよ、このままでどうすんだよ?と思うし、オケはプロでも合唱は素人で正規のチケット代を取ってるのもおかしいと思うし、半額にしろよ、と思う。第九を年末に何度もやるってことは、要するに第九を馬鹿にしてるんじゃないの?とも思う。あんな難解な曲を行事にするなんて軽率さがないとできない、とわたしは思う。

でも一番の問題はクラシックコンサートに来るのは高齢者が多いことで、これを解決しないと10年後は公演そのものが成り立たないだろうし、プロオケだって合併するか、解散することになるだろう。

そんな苛立ちみたいなものがエネルギーを生み出すことになり、ジェネオケという試みをやってみる。成功するかしないかはわからない。でもこの苛立ちを放置することが嫌。口ばかりの訓垂れで悲観する文句ばかり言うのも嫌。苛立ちがあるなら、行動してみる。

そして、できるだけ多くの人に本物の感動を与えたい。

なぜなら、芸術とはそういうものだから。

だから、年末行事として第九を何度もやることが許せない。同じものを量産するなんて、それはフランチャイズであり芸術でない。芸術は比較のできぬ一品ものなのである。

すなわち芸術とは極端なものである。

極端は量産できないもので、再生産もできない。極端は唯一無二。

だから、ジェネオケの第九は極端である。唯一無二の一回切り。来年はなし。再来年もなし。ずっとなし。

大植英次が、ジェネオケメンバーが、4人のソリストが、東京オペラシンガーズが渾身の第九をやります。



 

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