結月です。
事実っていうものには正解はあっても、人の意見や感想には正解はないものです。
例えば、ヒッグス粒子だとか、そういうのは仮説を立てて調べていき、実際にそれが観測されて正しいものとして証明される。
科学の分野は事実だけを証明していくものだから、いくら自分が立てた仮説に思い入れがあったとしても方程式としてそれが成り立たないと誤謬なわけで、正解とは言えない。
ところが人の意見や感想となるといい加減なもので、そもそもその正しさを証明できるものでなく、いわば「好き嫌い」程度のところで言い合いをする。
政治的意見はその典型であって、右だとか左だとか、そういう主張は好き嫌いが発端だったり、言ってみればその人の「趣味」の範疇であったりする。
ただ、政治の場合は国民の満足度や幸福度というバロメーターがあり、政権の志向によって変わってくる。わかりやすいのは戦争状態にあるとその戦争で儲かったりしてハッピーな人もいれども割合的には不幸な人が増える。
でも、それが正解かどうかまではわからない。なぜなら、あるポジションにとっては戦争をすることすら正解であるからで、そのポジションなりの意見があるからである。
芸術や文芸という世界は意見と感想の応酬であり、ピカソの絵が嫌いという人もいるし、モーツァルトが苦手という声も聞いたことがある。
客観的な芸術評価で言えば、ピカソもモーツァルトもとんでもない芸術家なのであるが、それを客観的に理解しているか、それとも自分の好き嫌いという主観で話しているかで雲泥の差が出る。
モーツァルトが嫌いだという人の理由を聞けば、子供の頃にピアノを習っていてモーツァルトをやらされたが上手く弾けず、先生には怒られていい思い出がないから、なんて言われてしまい、いきなり自分の思い出を基準にされたりするともう会話が成り立たない。
そういうすれ違いはどんなところにも多々あるもので、噛み合わないというのは根本が主観であるからであり、科学のように根拠や論理性がないからである。
アドバイスを求めて、
「こうしたらいいよ」
と言われたりするのも正解でないいい加減なもので、それはそのアドバイザーのポジションからの意見にすぎず、占いよりはマシであろうが、あまり当てにならない。
元首相の国葬をすべきかすべきでないか、そういう問題も意見と感想レベルのぶつかり合いだから終わりがない。不毛な議論にしかならないのはそのせいである。
結婚すべきかすべきでないか、離婚すべきかすべきでないか、そのあたりの話と似たようなもので、最終的には「好き嫌い」と「趣味志向」による意見に過ぎない。
クラシック音楽が作曲されて100年以上も経ってまだ演奏されているのは、その音楽に正解がないからで、残された音符に対して演奏者が自分たちの意見や感想を打ち込んで演奏するからである。
もし音楽にひとつの正解しかないのであれば、演奏もひとつでいいわけで、再演する必要がない。
正解がないために時代によって人々の感性も変わり、その変化に合わせて新たな解釈が生まれていく。だから音楽は続く。
流行歌がクラシック音楽のように100年ももたず、懐メロになるのは歌詞があるからであり、その時代の感性を捉えた歌詞は人々のハートを掴みやすいが、時代が変わるとすぐに古臭くなる。いわば、流行歌はその時代の中で「正解っぽい」ものが込められている。
さだまさしの「亭主関白」なんて歌は、ちょっと今じゃ内容がひどすぎて聞いていられないのはそのためである。
ともかく人間同士のほとんどのやり取りは科学的ではなく、自分勝手な好き嫌いや趣味で語られているのだから、まともに付き合っているとキリがないし、精神がもたない。
Twitterなどその典型で、炎上や言い争いが起こりやすいメディアであるが、そこにツイートされるのは意見や感想ばかりで科学でない。だから終わりがない。いつまでも似たような言い争いが起きる。
内容としては悪質な夫婦喧嘩が不特定多数になったようなもので、科学的に共通解を見出そうとする気がないのだからやりきれない。
とまあ、人がやることは得てして正解がないから、自分が言っていることも正しくないだろうし、相手が言っていることもいい加減なもので、誰かが言っていることも怪しいものである。
であるからして、まともに他人の意見や感想なんて気にしていたら疲弊してしまう。
日本人は「我」が弱いから、意思決定が他人の意見である傾向が強い。
「我」がしっかりとしていれば、何を言われても跳ね返せるし、平然としていられるからそれほど疲れはしない。
それは足腰がしっかりとして主観であるけれど、日本ではそうした主観は嫌われる傾向があるので、軟弱な主観が多い。
しかし、強い主観であっても軟弱な主観であっても、その主観が発する意見や感想はやっぱり正解でないものばかりなのだからいい加減なものである。どうせいい加減なら、主観は軟弱でないほうがよろしい。
わたしは他人の意見や感想にはそれほど期待していないし、求めてもいない。そもそもあまり興味がない。だから「ふ〜ん」と聞き流している。
意見や感想には正解がないのだから、そこに正しさを見出そうとはしないで、それがおもしろいかおもしろくないかを判断基準にしている。
正しいものでないだろうけど、おもしろい。そういうことに興味がある。
最近ではガーシーで、ガーシーがやっていることは正しくないかもしれないが、おもしろい。ああいうのは見たことがなかったからおもしろい。興味が持てる。
音楽だってそうで、大半の演奏なんてそんなおもしろいものじゃない。ほとんどがありふれている。大変上手かもしれないが、これは初めてだわ…なんて驚くようなおもしろさなんてたくさんはない。大半が上手だけど大しておもしろい演奏でないからこそ、わたしはプロデューサーとして正しいが基準でなく、「なんだ、これは!!」とびっくりするようなおもしろさを価値基準にしている。
意外と正しさというのはつまらないものなのである。
水素と酸素が結合すると水になる。これは紛れもなく正解である。でも、
「ふ〜ん」
というだけで、感動は生まれない。
ヒッグス粒子が観測されたとき、わたしは少しは感動した。なぜなら、それまでに宇宙物理学にハマった時期があって大量の専門書を読み漁っていて、ヒッグス粒子の仮説を知っていたから。宇宙誕生に関する138億年前のことがわかるスケールの大きさに一応感動はした。ところがそうした科学的正解はすぐさま「知識」に落とし込まれるから感動が長続きしない。
それよりも正しいかどうかはわからないけれど、
「おもろい!」
には感動する。
ちなみに陰謀論がワクチンや政治などに出てくるのは、正しくない怪しさが人を惹きつけるからである。正しさを根拠にしていないからデタラメであり、創作じみたフェイクであるからこそ、そこにおもしろさを感じ、信じてしまう人が続出する。
さらに怪しすぎる儲け話。結婚詐欺師の身の上話。それらも似たような部類であり、嘘っぱちであるのに騙される。
だから、正しくはないかもしれないけれど「おもしろい」には良質なものと悪質なものがあるのである。
グルメ雑誌で見た料理の写真が美味しそうだったから店を訪れてみたが、出された料理が写真とはまるで違ったものであることがある。
キャバクラで写真ではメチャ可愛いから指名した女の子が写真とはまるで違っていて、それは写真の加工だったと気づくこともあるだろう。
結婚紹介所で紹介された男に会ってみると、写真とは微妙に雰囲気が違うし、話してみればプロフィールもデタラメだったなんてこともあるに違いない。
これらは悪質な「おもしろさ」に騙された例だと言える。
あとは人に経験値が乏しかったり、理解力が不足していたりすることで、本当はしっかりとしたいいものであるのに酷評されることがある。
その本質を理解できない無知にすぎないのに悪く言われる悲劇。
でも、そんな酷評には力があって、Amazonのレビューでもマイナス評価は力強い。
やっぱり人の言うことなど、大半はいい加減なものなのである。
だから大事なのは、自分がそんないい加減なものに惑わされず、自分にとっていいと思える判断、もちろんそれも正しいものでないかもしれないが、自分にとっていいと思うことができるかどうか。
そうやって自分で決めて、それが後になってから失敗だったとわかったとしても、経験していかないとわからないことも多々あるのだから、勉強の糧として割り切ること。
と、わたしは思うのだけれど「思う」なんて言っている時点で、わたしがこうして言っていることも正解ではなく、いい加減なものに違いない。
その意見や感想がどれくらい客観的事実による割合が高いか。まあ、そのあたりが重要で、客観的事実が著しく低いのは陰謀論である。
とまあ、わたしは他人の意見や感想、思い、そうしたものがどれくらい客観的事実の含有量があるかで聞くようにしている。
その含有率が低いと、あまり聞くに値しないものだから聞いていて退屈もするし、次第に腹も立ってくるしでいいことはない。
と言っても、これもわたしのいい加減な話であるから、きっと正解ではないというところに落ち着いてしまう。