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他人目線で生きるとつまらんよ。

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結月でございます。

これまた日本人の国民性だろうけど、他人目線が判断基準になることが多い。ほぼみんながマスクをするというのも感染対策を理解した行動というより「他人目線」によるプレッシャーの意味合いが強いように思う。

であるからして、科学的な感染対策から考えても意味がなさすぎるシーンでもマスクしている人がたくさんいる。

とにかく、日本は他人目線を窺いながらという感じ。

かく言うわたしも他人目線を気にした時期があって、それは着物を着始めた頃。当時は着物やメイクの完成度も低いし、自分がやったことないことであったし、その昔、美輪明宏さんが紫色のドレスで銀座を歩いたら砂をかけられた話を思い出し、わたしも同じ銀座で砂ではないにせよ、嫌がらせをされるのではと思った。

しかし、世間は優しく、これといった嫌がらせは受けなかったし、こんなわたしの元にたくさんのお客さんが来てくれた。

とはいえ、見えないところで陰口叩いている人はいたに違いなく、でも着物で銀座を過ごすようになると、他人目線を気にするどころか、見せびらかすモードになって楽しくて仕方がなかった。

この世にはたくさんの人がいて、考え方も好みも千差万別であり、同じ人間なんかいやしない。だから、全方位的に好まれるなんてことはどんな人間でもあり得ないことなのだから、他人目線とはいい加減なもので、デタラメなものがほとんどなのである。

よくも知らないのにテキトーなことを言う。それが大半。

あとは比率的に愛してくれる人が多いのか、嫌う人が多いのかくらいであって、高感度の高い人は好かれる割合が高い。それでも100%ではなく、3割くらいには嫌われているかもしれない。

しかし、歴史的に見ても、なんて大袈裟な言い方をしてみるけれど、おもしろいことをなし得た人々は他人目線を気にしない人ばかりである。

逆に他人目線を気にして生きるようになると、人間は小粒になる。

政治家だって大物になればなるほど他人目線は気にしない。芸術家なんてその典型で、偉大な芸術家が他人目線なんか気にして、

「こんな曲、書いちゃったら嫌われるかな…」

なんてベートーヴェンが考えるわけがない。どこまでも主体的で、誰がなんと言おうが、自分のワールドを築き上げる。

画家が女の裸体を描くのに、他人の目線を気にしていたら描けるわけがない。

音楽家だって巨匠になればなるほど、

「もうあの人だから仕方がないよ」

と、諦められる境地に達していて、好き勝手できるようになる。

というわけで、他人目線を気にしないととても自由になれる。精神が解放される。

一方、当たり前だが、他人目線を気にすると精神は不自由になり、不幸な気分が漂い始める。

これはカマキリ先生のように金を払ってるんだからホステスに乱暴をしていいという自由ではない。日常の中では他人に無理がないように配慮するのがよく、生き方として他人の目線に媚びるなといことである。

しかしながら、同調圧力が強い日本では他人目線を気にしない生き方が難しい。なぜなら、生まれてから日本にいて、幼少の頃から他人目線を気にするよう擦り込まれているから。

であるからして、結果的に他人目線を気にしながら生きたほうが平均的に楽という事情があって、他人目線を無視できる快感にはなかなか至らない。

普通に生きるなら他人目線を気にして、ストレスを感じながら過ごすのもいいだろう。

しかし、他人と違うことをやって爆裂してやろうと思うのであれば、自分の中にある他人目線の恐怖心をぶっ潰さねばならない。

これは大変苦労するもので、染み込んだ他人目線の生き方はそう簡単に自分から排除できない。

わたしだって資生堂のメイクをして、京友禅の訪問着を着て過ごそうとしたときは他人目線を気にする心をやっつけるのが容易でなかった。すぐに臆病風が吹いてくるのである。

ところが、気持ちが萎えそうになりつつも着物姿でいろんな人に会いに出かけているうちに、それで通るようになった。むしろ着物でないほうがおかしく思われるようになったのである。

そして、着物を着ていると目立つから、とにかく人に会っても覚えてもらえる。そうやって社会的に地位がある人や有名な人に会えるようになるとむしろおもしろい人間だと思われ、そして仲良くなったりした。

もし他人目線で生きていたなら、会えないような人たちばかりである。

そうなって他人目線がまるで気にならなくなった。むしろ他人目線で生きることを拒絶するようになった。

自由とはこういうことを言うのだと悟った。

さて、着物も栃木に来てから着る機会がなくなってしまった。田舎だからまず着る意味がない。見せびらかすほど人がいない。そして、クルマ社会である。

12月のジェネオケ公演には最高責任者として京友禅の訪問着を着ようかなと思ったりもしなくはない。久しく目立ってないから、目立ってもいいかなと思う。

「なんだ、あいつは?」

と、思われる快感。

思えば、ジェネオケというオーケストラを立ち上げたのも他人の目線を気にしなくていい状態で音楽をやりたかったからだ。

今までコンサートをしてきたが、ちょっと事情があって他人目線を気にしなくてはならないところがあった。

ジェネオケがどんなオケになっていくのかは、やりながらでないとわからない。なぜなら、変化し続けていくであろうから。

でも、絶対的に変わらないコンセプトがある。それは、

「自由であること」

自分の自由を、オーケストラとしての自由を侵害されるようなことは拒絶する。

そういう意味ではスポンサーもつけられないだろう。金をもらうと自由でなくなる。スポンサーに気を使わなければならなくなる。それは自由じゃない。その不自由さは民放テレビ局である。

ジェネオケは自由であって、音楽も演奏者が自由に創り上げていってほしい。常に発展途上であってほしい。完成を目指すとつまらない。

そして、ジェネオケの挑戦に対して誰が何を言おうが気にしない。自由とは他人を気にしないものだから。

わたしたちはわたしたちでやってみる。試みてみる。正解はないのだから、どの意見も正解ではないのだ。

というわけで、ジェネオケの責任者のわたしが他人目線なんかで生きていたらおもしろい音楽ができるわけがないのだから、好きにする。

その自由な精神が演奏者にも伝わって雰囲気ができてくれば、演奏もますます自由になって何が起こるか予期できないダイナマイトなものになる。

どうせこんな演奏するだろうなぁ、なんて思われたくない。いきなり新しい提案、新しい投げかけを連発していく。

そんなことをしていれば、頭の硬い古臭い人からは悪く言われそうである。でも、批判や悪口は大歓迎。なぜなら、文句を言いたくなるということはその人の価値観をぶち壊し始めている証拠だから。あんたが見たことがないものなんだろ?要するに。そういうことである。

人間は自分が築き上げた価値観を壊されそうになると保身に走り、その破壊者を悪く言うものである。

でも、そうなればこちらの破壊力が凄まじいということだ。ありきたりなものはそのパワーがなくて、批判もされない。話題にもならない。

しかし、他人目線で生きている人間は批判されないこと、話題にならないことを望む。それが平穏だと思う。

そんなの、日常ではよくても芸術がそうなればおもしろくもなんともない。音楽が迎合してたまるか。

とまあ、そんなことを考えつつ、ド派手にいきたいと思う。

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