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音楽に人間臭さがなくなっている。

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結月です。

5歳児と遊びながら、退屈だからふとつけたテレビでバースタインが出ていて、マーラーの復活だった。ああ、この映像、アタシ、DVDで持ってる。

バースタインのマーラー全集をDVDで持ってるわたしはエプソンのプロジェクターでそれを映し、映画みたいにしてそれをよく見ていた。

マーラーの復活が終わると、次はカール・ベームのモーツァルト29番だった。

今更ながらにベームと言えばモーツァルトで、わたしにとってモーツァルトはベームである。

1974年のウィーンフィルの演奏で、50年経った今見てみると、今にはない音楽の凄みみたいなものがあって、昨日ここで話した文学性が音楽に漂っている。

昔は良かったとは言いたくないけれど、やはりあの凄みは今の時代には再現不能。

今のクラシック音楽は民主化してしまって、みんなで仲良く的であったり、みんなで音楽やろうよ的な感じであって、そうなり始めたのはおそらく2010年以前くらいで、それはスマホが普及し出して、ツイッターなどSNSが出てきた頃だろうか。

つまり、インターネットが完全に浸透して社会は急激に民主化した。権威というものが単に古臭いものになって、力のなかった個人がいくらでも情報発信できるようになって、それを無視できなくなった。

昨日、日本ハムの新庄ビッグボスがデッドボールを2度連続で与えてしまった選手に監督直々に声をかけにいったが、あれはビッグボスのキャラというよりも監督という仕事が権威でやるものでなくなったことを意味している。

昔は監督は偉いのだから、故意でもないデッドボールを詫びることなど立場的にするものでなかった。しかし今は個人が強くなっているからそれを権威ではねじ伏せられない。

格闘技なんかも互いがリスペクトした演出が多いが、それも裏を返せばやりすぎるとネットでの報復がある社会であるから、それを避けるために相手を持ち上げてリスペクトする無意識があるのである。

どんなに大きな企業の社長でも、大物政治家でもガーシーの暴露でひっくり返る。それは実にネット的なことだと言える。

だからこそ、デジタルネイティヴ、ネットネイティヴのZ世代は相手への気遣いが激しく、やり合うよりも仲良くを目指す。

とまあ、音楽も今は民主的になって強烈なカリスマで抑え込みつつ導くという70年代には見られた演奏はほとんどないように思う。

であるからして、同時に今はカリスマは出ない。

そんな時代にカール・ベームのモーツァルトを見て、その時代特有の凄みを改めて感じたのである。

音楽に正解はないから、そんなカリスマ的な演奏がいいのか、民主的な演奏がいいのか、それは決められない。時代だとしか言えない。

ただ、民主的な演奏は観客席で聴いていて胸ぐらを掴まれるような演奏にはならない。どちらかというとみんなで共感という演奏。さらに今はいい演奏をしてもそれを聴いた観客が個人のツイッターで評論家っぽい感想をすぐにアップする。そこで一気に音楽は矮小化する。

言ってみれば、ネットの浸透で人間が器用になった。どんな情報でもすぐにGoogleで知ることができる。だからひとつの謎の答えを発見したことの感動がない。ネットがない時代は「知る」ことが難しかったから図書館で膨大な本を調べたり、答えを知るまでのプロセスが長かったからそれを得たときの感動は大きかった。

音楽もレコードやCDを金を出して買って聴くものでなく、YouTubeにアーカイブ化されたものをタダで見て、気に入らなければ1分で消して場合によっては早送りする。

そういう習慣の中にいると、表面的な知識は増えても失敗も感動もないのだから、音楽が安っぽくなる。これは演奏者も同じで、やたら滅多と情報量だけが多くて、技術的にやたらと器用な演奏が多い気がする。つまり、ヨゼフ・シゲティの真逆である。

でも、演奏者にYouTubeを見るなというのも無理な話で、ネット断ちも現実的でないから、ネット的な演奏になってくる。

これを音楽の進化と言えるのかわからない。ただ人間臭さはなく、デジタル的な清潔さがあって、シンセの打ち込みに近づいているのかもしれない。

さて、ベームのウィーンフィルによるモーツァルトを見て、モーツァルトはウィーンフィルでないとモーツァルトでないとも思った。それくらいいい演奏だった。

要はモーツァルトはウィーンで作曲していて、ウィーンの人であり、ウィーンの音楽なのである。

だからウィーンのオーケストラに敵うわけがない。それは血だからだ。

血だけは変えられない。いくらモーツァルトを勉強しても外国人にはウィーンの血がない。

そしてウィーンの聴衆もウィーンの血を持つ人であって、モーツァルトが大好きなわたしもウィーンの人が感じるモーツァルトを体感できていない。

音楽が普遍的で、特にモーツァルトは世界中で演奏されているけれど、本当は愚直なほどにドメスティックなものなのだろう。

ちょっと古いがJUDY AND MARYは日本で聴くからいいのであって、そこには90年代の日本人のハートに流れる血に共鳴する。X JAPANは日本で聴くからいいのである。外国でライヴをやって受けはするだろうが、日本の土着な血は得られない。

実はモーツァルトもそうなのだろう。わたしたちはモーツァルトをわかったつもりでいる。でも、盆踊りを踊ってみている外国人にすぎないのかもしれない。

ウィーンの血の響きではなく、モーツァルトの音楽に自分の思い出や経験を投影しているだけにすぎず、盆踊り的なモーツァルトの土着性は知らずにいる。

土着な作曲家は民族楽派と呼ばれる作曲家が考えられるが、それ以上にドメスティックなのはショスタコーヴィッチではないか。

わたしはショスタコーヴィッチが好きだけれど、新設したジェネオケでもやってみたいとは思いはすれど、やらない。なぜならショスタコーヴィッチはソ連時代の怖さを肌で感じていた血がないと意味のない音楽だと思うからだ。

日本人がショスタコーヴィッチの交響曲第7番をやってなんの意味がある? 第12番「1917年」をやってなんの意味がある? 第13番なんて日本人が歌って意味がないどころか、まるで一昔前の中国製のコピー商品のレベル。馬鹿にしている。

13番はバビ・ヤール。今話題のウクライナでナチスドイツによる大虐殺があった場所。そんな曲は日本人には無理で、それをやっても今のウクライナを語るテレビのコメンテーターくらいの浅はかさにしかならない。

もちろんショスタコーヴィッチのすべての曲がソ連の政治的な背景があるわけでないが、そうした中で作曲されてきた曲は外国人には迫ることができない。演奏したとしても上手な演奏にしかならない。あのカラヤンがベルリンフィルでショスタコーヴィッチの第10番を演奏したが、あれはショスタコーヴィッチの音でないように思う。やたらと上手なだけの演奏だった。

ウォッカの密造酒はソ連人の手によって作ったものがよく、きっとフランス人が日本酒を醸造してみても日本酒にはならない。

そういう土着性が実はクラシック音楽にもあって、それなのに普遍化しすぎているように思う。

要はグローバルによる平均化であり、世界のオーケストラもみんな上手いけれど、そのオケ独自の匂いみたいなものがなくなっていて、無臭になりつつある。

ちなみにオーケストラの匂い、というか臭いが猛烈ですごかった演奏の一例は、例えばコンヴィチュニー指揮のライプツィヒ・ゲヴァンドハウス管弦楽団のベートーヴェンである。

コンヴィチュニーのベートーヴェン交響曲全集のCDを聴いたわたしはまるで近寄れないほど汗臭い柔道着を着た師範に一本背負いされた気分になった。

さて、そんなことを言いつつ、わたしは日本人であるし、立ち上げたジェネオケも日本のオケである。

そして、ウィーンの音楽であるベートーヴェンの第9番を演奏する。

日本では毎年年末の行事となるくらい恒例化した曲であれど、実は9番なんてものすごい曲を、

「あっ、第九っすね」

みたいな軽々しさがある日本は異常である。

はっきり言って、ナメている。ハロウィンやクリスマスじゃあるまいし、第九なんか行事化すんな。

それなのに敢えて12月に第九をジェネオケ旗揚げに選んだのは、うちは最初で最後の第九をやるつもりでいるから、他とは違うんだぜと言いたかった。うちの第九は来年もあるようなクリスマスケーキみたいなもんじゃない。こんな曲、一度やったら二度とやるか。一回やったら十分。それによそみたいに素人を公募して作った合唱団なんかでやるか。うちはちゃんと合唱もプロでやる。お客さんからお金を取って見てもらうのに公募なんかの合唱でやれるかちゅうねん。だから第九は一回きりなんや。だから旗揚げというオープニングで選んだ。

と、ちょっとガーシー風に言ってみる。

12月の第九シーズンに敢えて第九で喧嘩を売ってやろうという意気込み。どこのプロオケも毎年毎年第九ばかりやり腐って。アホとちゃうか。

と、さらにガーシー風にわたしの本音を言ってみる。

だから、他とは違う一回きりの渾身の第九を聴かせたるから、ジェネオケの第九、12月12日、みんな来てや。待ってるデ。ほなの〜

と、やっぱりガーシー風で終えてみる。

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