結月です。
安倍晋三の「桜を見る会」にサントリーがお酒を提供していたことに、
「プレモル、好きだったけど飲むのをやめる」
なんて呟きを見てしまって、
「そんなこと、気にする人っているんだ」
と思うわたし。
安倍晋三のことが嫌いだとプレモルを飲むたびに安倍晋三のことが思い出されてしまって飲む気がしなくなるのかもしれない。
しかしながら、それは余計な想像力というもので、プレモルはプレモル。味は変わるものではない。
きっとそれもルサンチマンのひとつなのだろう。
酒提供が企業献金に当たるかどうかとプレモルを開発して社会に提供し飲めるようにしていることは別のステージのことで、想像力を拡大して自分が飲むのをやめるのは筋が違う。
とはいえ、お酒を飲む飲まないも好みであるから、飲まないのであるのもよろしい。
ただ筋が違うことを気にして、余計なことをする体質は幸福感を得にくい生き方なのではと思う。
プレモルの缶に安倍晋三の写真がプリントされているのであれば、リベラル左翼にとっては忌み嫌うもので飲みたくないだろう。
わたしも昔はアンチ巨人で、巨人のロゴを見るだけでムカついていたことがあったが、ビールかジュースか忘れたが巨人のロゴ入りのものがあり、確かにあんなものがプリントされていたらおいしく飲めないから買わなかった。大嫌いな巨人に自分が金を出している気にもなるし、巨人ファンだという誤解を招くのも嫌だった。
今はプロ野球そのものが昔のようなステレオタイプな娯楽でないから、野球に興味がなくなって巨人が買っていようとも気にならない。なるほど、愛情の対義語は「嫌悪」ではなく「興味なし」なのである。
しかし、プレモルに安倍晋三がプリントされているわけでもなく、そこまで気にしなくともいいのであって、しょーもないことを気にするのは不幸体質というもの。
どーでもいいことはどーでもよろしい。
そういえば、BSフジの「プライムニュース」では2ヶ月以上も連日ウクライナを扱っている。ゲストの専門家もお馴染みになっていて、
「ロシアは今後、どこをどのように攻め込むと考えられますか?」
なんて反町さんが訊いたりして、
「いや、そんなことロシアに訊かなきゃ、わかんねーし」
と、冷めた目で見つつ、この番組は実はウクライナ戦争も真面目に扱っているように見えて、あれは戦争ゲームの攻略を考えて楽しむというエンタメなのである。
さすがに2ヶ月以上もやっているとゲストもキャスターも緩んできて、番組の雰囲気が緊張感がなくなり、井戸端会議、もしくは居酒屋トークっぽいところが垣間見れるようになった。
どうしてそうなるかというと、ウクライナという日本から遥かに遠く、そもそも馴染みのない国の出来事であるからで、戦争のリアリティが日本人に得られないから。
だから、専門家と称する人の話も机上空論だったり、勝手な憶測だったり、バイアスがかかりまくった思いであったりいい加減なものなのである。
日本にいてリアリティがないウクライナ戦争に無理に同情しようとしたり、大国の指導者であるプーチンの今後を予測したりするのは日本に住む一般ピープルが考えたってしょーがないテーマであってなるようにしかならない。
日本で外交の立場にもない一般ピープルがウクライナを議論することが意味のないことであり、だからこそエンタメ化する。
そんな遠い世界を憂うより、自分のことを気にするべきであり、自分がいかに生きていくかというリアルを大事にするほうがいい。
自分の力でなるようになることを頑張る。自分の力でなるようにならないものはどーでもよろしい。
ウクライナのことよりも今日はガーシーchを見てしまって、文春の記者を絶対許さんということを話していた。
ガーシーのチャンネルをまともに見たのは初めてだったが、あまりのロックンロールぶりにちょっと感動してしまった。文春の記者に関してはマジで怒っていて、大阪弁で30分以上も捲し立てるのは話芸としても達人だと思った。
さらにNHK党から参議院の選挙に出馬すると表明までして、これぞエンタメ。立花孝志さんとの相性抜群で、実は政界と芸能界がズブズブであることを大暴露しそうでおもしろい。
60にも満たない動画数でチャンネル登録者数が122万人という驚異の数字。しかもタレントが暴露されているのにテレビというオールドメディアからガン無視されているところがむしろ信憑性を高めていてロックンロール。
ガーシーを見ていて、強烈な民主主義の姿だなと思った。民主主義は制度だけでしか機能してこなかったが、ネット時代になって動画によって個人が情報発信できるようになり、昔なら芸能事務所に潰されていた話もこうして暴露されるようになった。
それがいい社会はどうかそれはわからない。でも、そういうことができる社会になった事実があり、民主主義が進化したことは間違いない。
その事実が嫌いだとか、そういう趣味は事実には通じず、社会は変化していく。
ともかく、そんなガーシーがNHKの政見放送に出てくるというのだから、これは最高のエンタメじゃないか。
また、こんなにもネガティヴで悪魔的なものが出てくるのは、それだけ日本の景気が悪い証でもあって、例えばバブルのような明るさの中ではこういうのはあまり相手にされない。
おそらく大半の日本人がネガティヴなものを抱えていて、だからこそそこにロックな精神で乗り込んできたガーシーに同調して人気を集める。
さらに巨悪に対しては毒をもって毒を制するということがあり、それを期待してしまう。
とまあ、いろんなものが出てきて社会というのは変化しているし、おもしろいものである。
わたしは物事に感情移入しなくなって、世界を眺めるようにしている。善も悪もなく、好きも嫌いもなく眺める。
そして、愛情がない、すなわち「興味がない」ものも増えて、興味がないものには何とも思わない不感症になった。でも、それが哲学的生き方のようにも思えてきて、構造主義のずっと先を行くように思える。
世界は捉えようがなく、視点を特定しない。自分という視点を多角化する。するといろいろなものが見えてくると同時に執着がなくなる。しかし、いくら多角化しても自分という存在があるから世界をすべて見ることはできない。だから眺められるだけ眺める。
真理はつかみ取れる具体性があるものでなく、空気のように漠然としたもので在るには違いないがつかみ取れないものなのだ。
ヴィトゲンシュタインの「世界は起こっている事の総体である」にも通じるし、そもそも把握できる世界はない、とも言える。
そうなると心地よい絶望が感じられて、無常に近づいてくる。
愛情の対義語である「興味がない」は、執着がないという意味にもなってきて、釈迦である。
さて、興味がない境地。そこに至るにはうんざりするほど興味があることに関わらなければならない。嫌というほど、もういいや、もう十分だと思うところまでやるとようやくのことで興味がなくなる。やり尽くした終着点。
最初から興味がないのは怠慢か無知であって、とことんやった後の興味のなさがいい。
最初から水なのはつまらない。お酒が水になっていくことに価値がある。
そして、どーでもいいことはどーでもいいと言えること。
つかみようのない世界と自分がきっとそのとき、混ざり合っている。