結月美妃.com

結美堂の結月美妃公式ブログ

【スポンサーリンク】

肉体が弱いと訓垂れになる。

【スポンサーリンク】

結月です。

5歳児と暮らしているとEテレの「おかあさんといっしょ」を毎朝見ることになるのだが、毎度思うのは歌のお兄さんとお姉さんの肉体が文化系体質で軟弱だということ。

対して体操のお兄さんとお姉さんはさすがで体が引き締まっている。

今年の4月から歌のお姉さんが変わったけれど、前任のあつこお姉さんも文化系体質だった。でも今年からまやお姉さんになってさらに肉体の軟弱度が増した。

歌ばかりやってきたような人たちなので肉体が引き締まることはなく、歌のお兄さんは痩せ型で虚弱に見えるし、歌のお姉さんはふっくらで筋肉がない。とにかく文化系であること、つまり今まで運動やスポーツをまともにして来なかった典型的な肉体なのである。

わたしは文化を仕事にして生きているけれど、ちょっと前から文化系の軟弱さが嫌なものに見えてきた。それは自分の肉体を含めてであり、わたしの肉体は生まれてからまともに運動をしてこなかった軟弱であり、スタミナはないし、肉体的な強さでは絶望的なレベルである。

しかしそれでも山登りを年に2度はしてみたり、毎日エアロバイクを漕いだりして、これまでの文化系軟弱体質をなんとかしようとしている。

文化系がどうして嫌になってきたかというと、左翼的批判をするお花畑系の人たちがどうも文化系が多い気がして、要は訓垂ればかりなのである。それがどうも不健康に見え始めて、実現不可能な理想を語ったり、その理想でもって現実に対してヒステリックになったりと、左翼的なものの御行儀の悪さというか柄の悪さ、さらに実践力のなさが頭でっかちの不健康に見えるのである。

それに気づいたのも山登りをしてみて、己の肉体が山登りでリアルに死にそうなくらいに苦しかった経験のせいであり、訓垂れは口と頭だけで無責任に思うようになった。

あとはコンサートを開催してみて、音楽の理想とか音楽の人々への役割とか、そういう甘ったれた考えでは実際のコンサートはできないし、そもそも客が集まらなければいい音楽を伝える先はないわけで、音楽家にありがちなセンチメンタリズムみたいなものがすごく嫌になった。

理想から現実を作るのではなく、現実から意味を生み出す。これが正解だとわかった。

山の頂上からの景色が絶景で美しいからそれは見てみるべきだと理想を言ったところで、山頂まで登る体力がないとそこにはたどり着けない。ふわふわしたロマンは現実無視なお花畑で、何よりも第一なのは体力なのである。

さらに体力だけでなく、肉体が健康であること。これが重要で、肉体の健康さがないと人間はネガティヴになる。

芥川龍之介だって、太宰治だって、あんな小説を書くのは覚醒剤ばかりやっていたからで、それでは思考の体力もなく、書くものは軟弱でネガティヴになる。

とまあ、スタミナ、そして健康面で肉体が大事であることに数年前にようやく気がついたわたしで、だから歌のお兄さんとお姉さんの軟弱さが体操のお兄さんとお姉さんの肉体美と比較してしまって、歌ばかりやってるとヤワだな… と思う。

しかしながら一流のオペラ歌手くらいになると子供相手の歌番組と違って肉体が巨大化し、肺活量が凄まじいのか首は太いし、胸はデカいし、スポーツ的な瞬発力は皆無でも肉体としては凄みがあったりする。

とはいえ、音楽家は軟弱体質の代表格のような職業で、オーケストラをやっているプロ奏者を見ても運動不足の集団といった感じがする。

思えば作曲家も運動不足、虚弱体質が多く、その代表格はショパンかもしれない。

さらにピアニストは見るからに虚弱で、線が細く、病弱っぽいのが多い気がするが、それはショパンがピアノでは大きな作曲家だからで、ショパンを繰り返し弾いているとああなるのだろうか。

ちなみにピアノには詳しくないわたしであるが、わたしが唯一愛してやまないのはユジャ・ワンで、彼女はピアニストであるのにスポーツ選手に見える肉体をしていて、そのサウンドは強烈である。

そう考えると、肉体を鍛えたほうが音楽性が広くなるように思う。虚弱には虚弱なものしか見えない。しかし、音楽が森羅万象であるなら、音楽家は虚弱だけではいけない。

それは文化系左翼リベラルの人たちが自分たちの好みの世界しか見ることができず、彼らが嫌う人たちのハートを理解しようとしない閉鎖性に似ているかもしれない。

ちなみに泳げないわたしは特に海が苦手であるから、海に潜った感動を経験することがなく、海に関する世界はまるで持ち合わせていない。

ともかくも肉体を欠如した頭でっかちというアンバランスに嫌気が差している一応文化系出身のわたしは今は本を読むことよりもエアロバイクを漕いでいるほうが楽しい。

生まれてから肉体の鍛錬が完全欠如であったせいで、エアロバイクを漕ぐことが新鮮であり、30分間を漕ぎ続けることができる成果にちょっと感動している。標準的な体力からすればどうってことない成果であれど、今までがあまりに酷すぎたからそれができただけでもうれしいのである。

小説を読んだり、音楽を聴いたりすることは今までにたくさんやったから正直なところ自分自身にとって新鮮さがない。それよりも山に登ったり、クルマを運転したり、エアロバイクを漕ぐほうが経験値が低いから未開拓な世界が広くて楽しい。

肉体に関するものは訓垂れることを許さない。肉体はできないものはできないから嘘がつけないからである。

しかし、頭のほうはいくらでも嘘がつける。ハッタリも言える。現実的でない理想だって言える。

ちなみに今、わたしが一番嫌だなと思うのはウクライナに対してシンパシーを感じて、センチメンタルになる人たちのことである。

戦争を終わらせるには徹底して現実的な交渉をやらなければならず、おセンチではいけないのである。

それに戦争の発端は一つに特定できるものでなく、善悪はわからない。善悪に見えるものは単に自分がどちらに所属しているかだとか、どちらのメディアの影響を受けているかだとか、どちらが好きかといったバイアスの上に立っているからで、本当のところは善悪はわからないし、そもそも善悪はないのかもしれない。

だから、どちらかにシンパシーを感じることは戦争の終結にはつながらず、むしろ戦争を長引かせる。それにシンパシーを感じたり、おセンチになることはとどのつまりは自分が戦場にいないからであり、遠く離れた安全地域でテレビを見ているだけの「肉体感覚」のなさがそうさせている。

精神より肉体が大事。まずは肉体。肉体があってから精神。この順序を間違えると現実離れしたおセンチになるし、現実化できないのに綺麗事を唱えるお花畑になってしまう。

そんなわけで、エアロバイクで太腿に筋肉疲労が感じられることにわたしは喜びを得ていて、そして現実を捉えていない訓垂れにはならないと心がけるようになったのである。

【スポンサーリンク】