結月でございます。
なんだか昔のほうが楽しい、っていうか笑えることは多かったなと思う。
それはなぜかと考えてみると、昔はネットがなかったから、つまり情報が限られていた。情報が少ないから何かの事象に対して勝手な想像をしていた。それはとてつもなくいい加減で、根拠のないもの、今でいうトンデモなものばかりだっただろうが、それが冗談になっていてたくさん笑えたのである。
しかし、今はGoogleですぐに検索できてしまう。Googleによる検索情報がすべて正しいわけもなく、反ワクチン みたいなトンデモはたくさんあれど、でもちゃんと調べれば間違いのない知識を得られる。
そうすると情報と情報の間の隙間がなくなってしまう。謎がなくなってしまう。謎がすぐに解明されてしまってデタラメな空想が入る余地がない。だから話は説明的になるし、盛り上がらない。笑えない。
上方の漫才でボケがデタラメなことを言うと、
「ええ加減にしなはれ!」
と、ツッコミが入る。そこに笑いが生じるわけだが、今はそんなデタラメも冗談で言っても冗談として受け入れてもらえず、サッとスマホ検索でウィキペディアなんか出されて、
「それ、違いますよ」
となる。
「冗談やがな、冗談!」
という遊びがなくて、知識の確認がトークになるから盛り上がらない。ウィキペディアも実はいい加減な情報が多いのだけれど、とにかくあらゆることの辞書的に使われている。
思えば、ネット情報自体が正しいと正しくないの混在であるからデタラメが多いのだけれど、それを辞書的に使うと正しいかどうかの判断ができない人にとっては正解になる。だから、その人が何を見て、何を信じているかによる闘争になるのであり、ワクチン陰謀論などはその典型だった。
ただ、正しくても正しくなくても調べた情報をすぐに得て思考するという点は変わらず、つまり情報が足りない謎がないから笑いは生まれない。
もちろんネットによって昔にあったような詐欺はやりにくくなったし、トンデモを信じる人は少なくなった。怪しい儲け話などもそこと契約する前にネット検索で調べられるから容易に人は騙しにくい。だから騙されるのはネットを利用しない高齢者が多い。
とまあ、ネットの普及が浸透し、その情報量も日々増大している昨今、自分がお笑いすることがやけに少なくなったなと振り返る。昔はもっと腹を抱えて笑い転げたようなことがあった。
たまにYouTubeで昔の漫才を見ると笑える。今と違ってアホなことをやっとる。
情報がたくさんになり、その深みも出てくると、小説を読んでもおもしろくなくなってくる。2年ほど前に芥川賞作品を20年分くらいまとめて読んだのだけれど、どれもおもしろくなかった。
それはなぜかというと、小説に描かれている人間模様が情報としてネット情報以下であるからで、読んだところで、
「そんなこと、知ってる」
と、なるからである。
人の心に関する情報もネット上にはたくさん溢れている。いじめ経験、鬱経験、借金苦、自殺未遂、疾走の真相などなど、そういう小説的ネタはネットでリアルな証言が語られていたり、そこに関わる専門家の分析などが詳細に開示されていて、そういう記事を何気に読んでいるから小説みたいなまどろっこしいやり方をされると退屈するのである。
本当のすごい小説はそんな現在のリアル情報を突き抜けるような凄まじい想像力で描かれたフィクションであるが、そこまでできる小説家はそんなに生まれるわけもなく、身辺雑記の延長が多い。
ちなみにわたしが小説で完全にノックアウトされたのはロベルト・ボラーニョの『2666』で、あの作品は現実では考えられない巨大なフィクションで凄まじかった。
ともかく、文芸作品がつまらなくなったのか、それとも読み手の方が情報量が優っているからかはわからないが、爆売れするような小説が出たという話は久しく聞かない。
そういえば、村上春樹の『ノルウェイの森』というエロ小説が大ヒットし、ノルウェイの森現象とまで言われた。確か中学生の頃、わたしは親に買ってもらって読んだ。教室内でも読んでいる同級生がいた。
中学生にも読まれた原因は、ネットのエロ動画もない時代、ノルウェイの森の性描写が貴重だったからで、昔はあの程度で興奮できたのである。
それはエロ情報が今のように容易に手に入らない情報不足であったからときめいたわけで、今の中学生があんな小説を読んだところでなんとも思わないだろう。
だから、情報が乏しい環境のほうが感動は多いし、笑いも多いということになる。
わたしは映画が子供の頃から大好きであるが、昔は過去の名作を見ようにも見ることができなかった。
映画館では新作しか上映されていないし、例えばチャップリンの『黄金狂時代』を見るにも正月にNHKでやったのを運よく見られたという具合。
名作は噂でしか聞いたことがなく、見たい見たいと思ってもすぐには見ることはできない。しかし、レンタルビデオ店というものが出てきて、ようやくビデオで見ることができた。
ただ、それも十分な量ではなく、名作は「すごい映画!」という噂で伝わってくるものだから、見たいと思っても見れなかったのである。
そして、フランスで過ごすと、そこには名画座がたくさんあって、連日、噂で聞いていた名作が映画館で上映されていた。だからわたしは毎日映画館に通い、一日に3本見ることも珍しくなかった。
噂でしか聞いたことがなかった映画を劇場で見て、それはもう感動したものだった。情報がほぼないまま過ごしてきて、やっとの思いだったからだ。
ところが今はスマホで簡単に、好きなときに見ることができる。Amazonプライムだって500円の月額を払えば、いろいろ見られる。
情報への到着が著しく早くなった。つまり環境が良くなったのにありがたみがなくなってしまって、映画にもあまり感動がなくなってしまった。
情報過多は人間を利口にはしているけれど、無感動にしているのかもしれない。
感動はアホさや愚かさから生まれるものである。そんなアホなこと、そんな愚かなこと、よくやるよね、という「気合」から感動は生まれる。
情報が乏しくて、わからないからこそ、アホなことができる。デカいことができる。
何かことを起こす前にネットで調べすぎると頭が利口になりすぎて、慎重になる。どうせ無理だろうと頭が判断するようになる。すると、行動を起こせない。
「知らなかったからやれた」ということはあるものである。知ったあとでゾッとするけれど、知らないがゆえに挑戦できること、それが楽しさになる。
「こんなこと、やろうや!」
と、アホで熱く語りかけても、
「あ、ちょっと無理ッス」
みたいな利口さ。これでは躍動できない。
おもろそうだからやる。そういうエネルギーは利口になればなるほどできなくなって、無難に陥る。無難に陥ると生きていてあまり楽しくない。安全ではあるかもしれないけれど、エキサイトしない。
しかし、もう情報を遮断することは無理なのである。
世の中は変わってしまったのだから、過去を懐かしんでも仕方がない。
でも、容易に手に入るものがなくなったわけでない。こんなに情報を入手するのは楽になっても、手に入らないものがないことはない。手に入れにくいものが必ずあって、そこに挑むことはできて、そこに楽しさはまた生まれてくるに違いない。