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人は死ぬと思い出になる。

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結月です。

北海道へ行ったときにお世話になった人が急死したと知って、人は死ぬと瞬時に思い出になってしまうのだと知る。

去年、宇都宮のショッピングモールにいるときに電話をもらっていろいろ話をして、

「また一緒にやれるタイミングが来ればやろう」

なんて話をして、それが今年、わたしが始めるプロジェクトで販促として使えるかもと薄っすらと思い始めていたところだった。

人は生きていたところでのべつその人のことを考えて生きてやしない。それに会いに行くと言っても、遠いところだと簡単には行けない。

いや、都内にいたとしても思いのほか、人というのは会わないものなのである。

職場や学校という特殊な場である以外は、友達、知り合い、馴染みの店員などなど頻繁には会わず、数年会ってないなんてよくある話だ。

だから、生きていようが死んでいようが実際はあまり変わることがないのであろうが、相手が生きていると「まあ、いつか会おう」と無意識に近いところで考えていて、それは油断とも言い換えることができるかもしれない。

しかし、いきなり死んでしまったという知らせが来ると、その油断は後悔に変質する。そして、いつか会おうという可能性がたちまちゼロになってしまう。

きっと哀しさとはそういうものなのだろう。

うちの冷蔵庫には秘蔵にしてある彼が作ったチーズがまだあるけれど、もっと買っておけばよかったと今更思う。

そして、自家製のチーズで自家製のピッツァを焼いてもらったことが再現不可能な思い出となってしまった。

愛娘がもう少し大きくなったら、わたしが命名した牛を合わせに北海道の牧場へ連れて行こうとなんとなく思っていて、そしたらピッツァだな、と将来の風景を想像していたがそれは現実にはならない。

とにかく、人というのは死んでしまったら思い出になるようである。

正確に言えば、自分にとっていい人であると思い出になる。

おそらく、自分が心底から嫌っている人間が死んでも気分が清々するだけで思い出にならない。

そう考えると、人間は他者に対してどんな思い出を残せるかが生き様なのかとも思う。

翻って自分自身のことを想像してみる。わたしが死んだら清々すると思う人も多々いるだろうし、ちょっとは思い出を残せるかなとも思う。

着付けはものすごくたくさんの人に教えたので、そのうちの何%かは着付けを教わった思い出を持ってくれると少しだけ期待する。

コンサートはいくつかやったので、そこに訪れてくれた累計数千人の人にはわたし個人ではなく、そのコンサートの場という思い出を抱いてくれるかもしれない。

そう思えば、わたしのこれまでの生き様もまあまあかなと思う。

しかし、思い出は長く浸るものでなく、すぐに忘れ去られるものである。なぜなら、人は皆、日々忙しく生きているのである、死んでしまったひとのことをいつまでも想っちゃいないから。

それは生きていても死んでいても同じで、であれば死者は再び生者になるのだろうか。

ところでわたしはまだ年齢的に周囲に死者が少ない。知り合いはまだまだ若くて現役世代であるから。

しかし、20年前は60歳だった人は今は80歳である。20年の自覚がないといつしか相手は寿命が近い老人になっている。もちろん自分も20年年を取っているわけだが、こちらはまだまだ寿命があるから相手だけが年老いたように見える。

そんなふうに知り合ったときは相手は若くとも、今は80歳という人が何人かいる。

そう言えば、うちの猫たちも老けてきた。うち1匹はもう今年で11歳である。

猫は人間より早く年を取るので、それが如実によくわかる。

そういうわたしも思い出化するに近い年齢になっていくのだろう。その頃には自分より若い知り合いから、結月ももうすぐかな…なんて思われる。

10年ですら本当に早い。20年も早い。思いのほか早くに自分の死がそばにあることを知る。

だからやりたいことはやっておかなければならない。サボっていてはいけない。

「人の生は歩く影のようなものである」

と、シェイクスピアは言っている。影のように儚いものだ。

人は死ぬと思い出になる。

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