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能楽とバレエのコラボはつまらん。

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結月でございます。

今日、テレビのチャンネルで通りすがったEテレで、能楽とバレエのコラボをやっていた。少しだけ見たけれど、

「しょーもな…」

と、3分ぐらいで消した。

能舞台の上でバレリーナが踊っていて、背後にいるのは能のワキであろうか。

一見すると、脚本は能楽で、音楽も囃子であり、そこにバレエが登場する。

こういうコラボは近年ありがちだけれど、芸術的にも成功することはなく、「やってみた」という程度のものしか出来上がらない。

演者としては新しい試みと考えているのかもしれないが、客観的には中途半端なものにしかならない。

コラボという発想がそもそも安直だから。

しょーもなくて、中途半端にしかならないのは、能楽もバレエもどちらもそれぞれの主張をして混じり合わないから。混じり合っているようで混じり合っておらず、同じ舞台で違うことをやっている。だから一体感がない。

つまり、こういうコラボを本気でやるなら、能楽に対してもバレエに対しても両方に超一流の理解と演出力、そして企画力がないといけなくて、その両方において超一流という人は基本的に存在しないので、その両者を統合し、さらにまるで別物の新しいものが生まれないのである。

だから、能舞台の上で本来のシテがバレエを踊っているというだけ。ただそれだけ。

総合的な演出でないから、能楽のバレエ参加という程度だろうか。言ってみれば、海鮮丼にビフテキをのせてみたようなものである。

演者が一流でも、統合して別物の芸術を作り上げられていないと観るほうは何を観ればいいのだろうか?

あんな中途半端なものならガチの能楽を観たほうが凄みがあるし、ガチのバレエを観たほうが美しい。

黒澤明監督の『乱』は原作がシェイクスピアの『マクベス』なのだけれど、それを黒澤監督が戦国の脚本にして黒澤作品になった。

それをコラボというかわからないけれど、ともかくシェイクスピアが戦国の時代劇になってそれが一流の映画作品になるのは黒澤監督の統合力があるからなのである。

言ってみれば、原作が見えなくなるくらい噛み砕いて咀嚼して作らないと成功しない。

それなのに今日のバレエ能楽は脚本が能楽であって、つまり枠組みは能楽だった。だからバレリーナがとてもウザったく見えてしまって、さらに言うとバレリーナの肉体が能舞台では下品なものに見えた。

日本の能楽の肉体感覚とバレリーナのそれとはまるで異質なのだから、融合しない。融合しない異化効果を狙ったつもりだが、異化効果にも至らず、取って付けたようなものにしかなっていない。

要するに趣味の悪い仕上がりなのである。

例えば、アール・ヌーヴォーはコラボというか異文化を取り入れて生み出した様式であるけれど、それが成功したのは異文化を材料として用い、そこから新たな美を創造する才能あるコーディネーターがたくさんいたから。

それらはすべて「アール・ヌーヴォー」なのであり、独立した価値を確率した。東洋様式が見られてもやはり「アール・ヌーヴォー」だし、ビザンチン文化が見受けられてもそれはビザンチンでなく「アール・ヌーヴォー」なのである。

能舞台でバレエを踊ってみたというような異物感はアール・ヌーヴォーにはない。

能の演者は間違いなくバレエを理解していないし、バレリーナは能を理解していない。ちょっとは勉強してみたかもしれないが、理解には至っていない。つまりお互いのことがわかっていないから、それぞれがそれぞれのことをやるから異物感なのである。

それぞれに伝統があるものであるほど、コラボはうまくいかない。うまくいくのはユーチューバーのコラボ動画くらいで、なぜならそこには伝統まではないから軽いタッチでできる。

しかし、YouTubeだってキャラが際立ったユーチューバーならコラボ動画はそれほどおもしろくない。魅力が半減してしまう。

コラボで魅力が相乗した例はあるのだろうか? すぐには思いつかない。映画だって『エイリアンvsプレデター」は、それぞれの映画を見たほうがおもしろい。

さて、コラボは芸術だけでなく、ビジネス分野でもよくなされる。ちょっとしたトレンドだと言っていい。

あるお菓子メーカーと別のお菓子メーカーがそれぞれの主力を足し算したようなものとか、兎角、食べるものにはコラボが多い。でもどれも「まあまあ」なものばかりである。

ビジネス的には両方の顧客を得ることができると考えるのだろうが、爆発的なヒットに至らなければ結局のところ各々の主力がコラボ商品にある一定数流れたとすれば、売上げも大きなものは見込めそうにない。

やはり「やってみた」という域を超えない。

それにコアなファンはそういう中途半端なものを嫌う。余計なことはしてほしくないと思う。

しかし、コラボが多い理由を考えてみると、それだけ新しいものを生み出せていないということなのだろう。

能楽だって歴史は長いが、能楽が新しくなった話は聞かないし、演者としては新しいことをやっているつもりでも根本的には変っちゃいない。

バレエは能楽に比べれば現代的な試みはやっているが、それが巷で評価されているかというとそんなことはなく、ニッチな世界である。

おそらく両者とも客が少なくなっていて、このままではいけないという思いがあったのかもしれない。だからこそ、安直であるのにコラボをやって新鮮味を出そうとするのだろう。

食品だって主力商品が売れていはいても頭打ちで、売り続ける価値はあるくらいは売れてはいても商品自体が長寿化してなんとなく古臭いものに見えているものはたくさんある。

チキンラーメン、出前一丁、アポロチョコ、おにぎりせんべい、のりたま、ごはんですよ、6Pチーズなどなど。

とりあえず売れているから生産終了にはならないが、どうもおもしろくない。そういう商品はコラボへと向かう。もしくはベースを残したまま奇を衒った味変商品。例えば「ポテトチップス 苺のショートケーキ味」など。

言ってみれば、コラボをしようという気になるのは、それ単独での力がなくなっている証拠である。自信がなくなってきているのである。自分が古くなっていると危惧しているのである。お客さんに飽きられて離れかけられているのである。

コラボはそんな不安的事情から衰退を感じている者同士が慰め合うものなのかもしれない。お互い一緒にがんばろうよ…という掛け声。でも、コラボは長く続かない。定着しやしない。能楽にバレエだって、この試みがずっと続けられることはないだろう。

そうなのである。コラボは定着しないのである。慰め合って、互いを尊敬し合ったように見せかけてもやはり自分が大事なのだ。アール・ヌーヴォーのように溶け合って新たなものにならないのはその根底に利害関係があるからだ。

しかし、能の舞台でバレリーナの筋肉美は見たくなかった。それは場が違う。そういうことは他所でやれ。

そう思ってしまうということは、試みが失敗している証拠なのである。

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