結月でございます。
アタシの日輪刀、ツヴィリングの「雅」。実は刃物好きなくせに、まともな包丁を買ったのが初めてという口だけのわたし。それは刃物なんて集めても使う当てがないという現実を心得ているからで、冷凍食品のボロネーゼスパゲティにハマっているんだから包丁なんてたくさんあっても使わない。
しかし、ツヴィリングの「雅」のマジな切れ味を知ってしまってからは、ちょっとしたものでもこの牛刀を使いたくなってしまい、5歳の愛娘が林檎食べたいなんて言うと、
「雅の出番やね」
なんて、たかが林檎を切るのにわざわざ刃渡り20cmの雅を出してそこに刃を入れると、
「はあぁぁ…」
と、その切れ味に酔いしれる。
硬度60の刃は力を入れずして林檎がサクサクと切れてしまい、よく切れる包丁とはエロくて官能的な快感があるのである。
先日も玉ねぎを輪切りにすると、
「はあぁぁ… たまらん…」
と、恍惚となってしまった。
牛肉のバラ肉をブロックで買っても、スイスイとスライスできてしまう。
ずっと使っていた安物の包丁もツヴィリングの砥石で研ぎ上げるとなかなかの切れ味になって、普通に料理するには申し分ないレベルになってはいるけれど、安物の包丁が切れるようになっても官能的な恍惚がまるでない。
やはりいい包丁は素材がいいから重さもあり、そして強靭な刃は何を切ってもブレがないのだろう。これはいいクルマの直進安定性と同じなのである。
さて、そんな「雅」であるが、すでに恐怖するくらい切れるというのに、刃物好きなわたしは更なる切れ味を求めて6000番の砥石を発注してしまった。
砥石も6000番までくると、仕上げ以上の超仕上げの水準になってくる。この6000番でアタシの日輪刀を触れるだけで切れるまで研ぎあげようと思う。
わたしは包丁を研ぐのが大好きで、何本も連続して研いでもまるで疲れない。
包丁を研ぐときは無心になっていることが心地いい。これは釣りで浮きを眺めている心境に似ている。
しかし、ただ茫然としているのではない。無心で研いでいるけれどその先には恐るべし切れ味という鋭さがあり、静けさは決して無ではなく、官能的な恍惚を目指している。
釣りも同じく、浮きを眺めているときは無心であるが、魚が食いついたその瞬間にそれまでの静寂は躍動に変わり、釣り糸が力強く引かれる興奮になる。
そんな快感があるわけであるから6000番の砥石で究極的な切れ味を求めるのである。
ツヴィリングのVエッジ・シャープナーは実に優れていているが、その先に行きたい。だから、これからはVエッジを使ってから6000番で仕上げることにする。
とまあ、極上の包丁には切ることにエクスタシーを感じてしまい、
「ツヴィリングの最高クラス、ボブ・クレーマーほしいよね」
と、思う。
雅が刃渡り20cmであるから、もしボブ・クレーマーを買うなら違うサイズ、例えば刃渡り16cmのシェフナイフあたりだろうか。
意外と14cmのプレップナイフも使いやすそうで、これは現物を握ってみないとわからない。ペティナイフは使うことがないのでいらない。
あとは思いきり和包丁の路線で出刃包丁が前からほしいのだけれど、鯉釣りの最高のスポットが埋め立てられ浅場になってしまい鯉が釣れなくなった。そのせいで鯉釣りの場がなくなって、釣った鯉を捌くという楽しみがなくなり、出刃包丁はあったとしても出番がない。
しかし、鬼怒川はいくらでも鯉が釣れるところがあるらしいが、その場所を知らない。
鯉は清蒸魚にしてもいいし、火鍋風にしてもいい。
ともかく、いかにも日本の包丁という国内の老舗メーカーの包丁もほしいけれど、思えばツヴィリングのボブ・クレーマーも雅も作っているのは岐阜県の関であり、日本の包丁なのである。
良質なものは官能的な使い心地がある。
これは包丁に限らず、すべてのものに言えることだろう。