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やりたいことなんてないのが普通

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結月でございます。

自己啓発本とかものすごく流行った時期があったけれど、今はどうなんだろう? そういう本って売れているのだろうか?

昔ほど売れてないんじゃないかと思うのは、あの手の本は内容がどれも同じだったり、それはヒットした本があると柳の下にドジョウが何十匹となるからで、独創性があるのはそれほどないから。

あとはNetflixやAmazonプライムなどの登場で、隙間の時間を簡単に楽しめることができるようになったから。

つまり、人間は暇な時に自分はどうやって生きていこうとか、何か生き甲斐があることをやったほうがいいとか、余計なことを考えるのであり、その隙間の暇時間がスマホで満たされるとあまり余計なことは考えなくなるのである。

お稽古事なんかも昔は様々なジャンルが現れ、ケイコとマナブなんて雑誌も一時代を築いたけれど、今はネットで暇つぶしするから何か習い事をやろうという気分にはなりにくい。習い事をする人はよほど意識が高いとか、ネットではなくリアルな充足が大事と考えられる少ない層ということになる。

ともかく、スマホをずっと眺めることで暇な時間がなくなったから、自分がどう生きるかを考えなくて済むようになった。だから自己啓発本は必要にならない。

これはいい傾向とも言えるし、よろしくない傾向とも言える。

まずは大半の人はやりたいことなんてない。やりたいことが見つけられなくて困ってる、なんて話をよく聞くけれど、それは情報過多の世の中で他人の成功体験が簡単に見られることで自分との比較が生じ、そこと比べて自分は駄目だと思ってしまうところからくる。

得てして他人の成功談は大変怪しいもので、ネット上で盛られたものが多いし、そういう虚飾は楽に演出できる世の中であるから、実は大したことがない、もしくはそもそもが嘘というケースが多い。

それに大きな事業を成し遂げている人は総じて自分が成功していると自覚していないのであり、他人目線と自分目線は真逆なのである。

他人の成功はいいところしかクローズアップされないので、その成功に至る壮絶な苦労は見えない。その成功のためにそれほどの苦難を経なければならないとしたら、普通はちょっと遠慮しとくと思う。

なので、やりたいことを見つけるとか、生き甲斐系のことを悩むと詐欺に遭ったりするし、そもそもやりたいことがあること自体が才能なのであって、やりたいことがないのが普通であると知るべき。

だから、無理にやりたいことを自己啓発本に煽られて求めるよりも、やりたいことがないのならNetflixやYouTubeでも見て時間潰ししているほうが詐欺にも遭わないし、やりたいことはなんだろうとつまらない自分探しに悩まないからいいんじゃないかと思う。

一方で、今生にある自分という実存をスマホに費やす人生でいいのか?とも思う。スマホで動画を見ることは楽しいかもしれないけれど、生きる上で有益な情報でもなく、時間の垂れ流しで終わるのは、

「あんた、そんなんでいいの?」

と、問いかけたくなるのである。

スマホがない時代は本当に暇な時間をやりくりするのが大変だった。だから友達に長電話してみたり、雑誌を買って読んでみたり、長編小説を読んでみたり、習い事を始めてみたり、大して好きでもないのに恋愛をしてみたりしたのである。

情報量としては俄然、スマホのほうがたくさんで、スマホなしの時代とは情報量が桁違いであって、人々は知識的には昔よりも優れている。

ただ、ネットによって知識が平均化し、コモディティ化して、知識に価値がなくなり、未知の発見の喜びや感動がなくなった。スマホがない時代は知らないことを知ることが大変で、古くは図書館に行って文献を漁ったり、専門家に教えてもらったりと労力が嵩み、だからこそ知ることができたときの感動は大きかった。

大学というのもそういう価値があったわけで、大学の教授陣に触れることで専門分野を知る喜びがあった。しかし、今は大学の先生よりGoogle先生のほうが知識は優っているし、大学に通わずとも大学で得られる知識は検索で得られてしまう。特に文系分野はそうで、大卒という資格を得る以外にはあまり文系の大学は価値がないように思う。理科系はまだ実験など設備がないとできないゆえに、ハード面で大学の価値がある。

さて、やりたいことがないのが普通であるが、やりたいことがたくさんあったとしてもそれができるかどうかは別問題。

わたしはやりたいことが多いほうだと自認しているけれど、じゃあ、それができるかというと大半はすぐにはできないことばかりで、要するに普段はやりたいことができないまま過ごしている。

そうこうするうちにやりたいことが少しずつ実現されたりして、やりたいことがやれたコレクションが増えるわけだが、それも年に一回あればいいほうという具合で、一年でできればかなり短期とも言えるし、やりたいことを一つやり遂げるのも何年もかかったりする。

だから多くの時間はやりたいことがやれない憂鬱なものであり、わたしの場合は幸い、5歳の愛娘がいて忙しいからそれをうっちゃっている。

もし愛娘がいなくて、やりたいことがやれない、もしくはやりたいことがない状況であれば、自殺はしないにせよ、わたしはきっと精神的に危機的な状況に陥っていただろう。なぜなら、スマホで時間潰しすることに生き甲斐を感じないからで、そんなことを続ければ続けるほど生きる意味を失う自覚があるからである。

そうすると、スマホで動画を眺めることに時間を費やすことに苦痛がない人は幸せなのかもしれない。自己啓発しなくてもいいし、動画閲覧に時間をかけることに罪悪感がないのだから。

でもわたしは駄目で、余暇の楽しみの領域を逸脱したくらいの動画閲覧は、自分の人生に対して罪悪感が生じてしまう。それは死ぬ直前に「自分はこれで満足」と言えない生き方であり、やれることをやろうと思えばできた時間にスマホを眺めて時間を使ったと思うと死ぬときに後悔する。それだけは勘弁してほしい。

と、やりたいことがあれば、一つでも多くやれるように考えて生きるわけだが、とにかく一つのことでも時間が膨大にかかるから、そうしている間に寿命は減っていき、やりたいけどやれないことが出てくる。

自分の身はひとつだけであって、マルチプルな才能を発揮したとしてもそう多くのことはできやしない。

そして、日常を生きていればやりたいことにだけ時間をすべて費やすことができないわけで、わたしの場合は5歳の女の子を遊びに連れてやったり、勉強を教えたり、一人ならマックのバーガーで済む食事も食材を買って料理したりしなければならない。

こんなことやってる場合じゃないんだけどな、と思いつつ、「総合的」であるのが人間なのである。

それにそもそもやりたいことに挑戦してうまくいくとは限らない。うまくいかないことのほうが多い。予想通りに事が進むことはなく、要するに面倒なことの積み重ねばかり。そうなると、やりたいことであったはずなのにやりたくないことに思えてきたりして、でもそれでもやり遂げ、やっと成果が出るかどうかというところ。

やりたいことがあってもそんな感じで、満足することなんてない。やりたいことがあれば歯痒いばかりで、ずっと不満足。成し遂げて一度は満足しても、満足感は満腹と同じ原理で短期的な喜びに過ぎず、すぐに空腹になる。

と、そんなことを知りつつ、やっぱり自分が自分にとって無意味なものに時間だけは費やしたくはない。

人間はすべての行為をひとつずつしか選べない。単純なところでは「やる」か「やらない」か。するかしないか。行くか行かないか。決めるか決めないか。そんな単純な原理がすべての行為の根底にあって、毎日のランチで訪れたイタリアンですら「ボロネーゼ」か「カルボナーラ」かどちらか選んでいる。

決断はひとつ。

自分が何に時間を使うかも小さな決断の積み重ねであり、それがその人の履歴になっているのである。

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