結月でございます。
今日ふと、ネットの記事を見て「だよね」と思った。それは育児において亭主が良かれと思ってやったことが奥さんにブチ切れられるというネタ。それを漫画で表現していた。
あまり正確には覚えていないが、育児に忙しい奥さんに亭主が、
「お茶、入れようか?」
と言う。それに奥さんがブチ切れる。
これはものすごくよくわかる。つまり、育児に忙しくて、小さな子供を面倒看るのにいっぱいいっぱいであるのにお茶を入れてくれるのはまるで望んでいないこと。今、やらなければならないことは例えばオムツを替えるとか、洗えないままになっている食器を洗うとかそういうことであり、お茶なんかいらない。
優しさを演出しようとお茶なんか入れられても嬉しくないどころか、やらなきゃいけないことを理解していない相手には思わずブチ切れてしまう。
わたしも日々、5歳になったとはいえ、まだまだ手が掛かる愛娘と過ごしているから「やらなくていいこと」をやられたときにはカッとなるし、やらなくちゃいけないことを放置されているとカッとなる。
うちの場合はたまに会う週末婚以上に会わない相手が知らぬ間に家に戻っていて、保育園のお迎えのあとその痕跡を見てみると、髪の毛のついた櫛は放置しっぱなし、それもなぜか3つとか分散してある。自分が食べた食器やマグカップは放置しっぱなし。しかもマグカップはこれまたなぜか3つとか分散している。さらにわたしと5歳児では食べきれないようなデカい白菜が丸ごとあったりする。
保育園のお迎えから戻るとそんな散らかりようで、ただでさえこちらは料理をする気力がなかったりするところに食い散らかした食器やマグカップを洗わねばならず、髪の毛のついた櫛を片付けたりしなければ食事も作れない。
愛娘とスーパーに行って食材やお惣菜を買って帰ったところなのに食べきれないような巨大な白菜。
白菜があるだけで、これを処理しなければならないとなると、食べたくもない鍋料理を連日食べなければならなかったりして、ムカついてくる。しまいには5歳児は、
「もう白菜は食べたくない」
と言い出す。
あの散らかりよう、つまり自分で出したものを片付けられないのは何かの病気なのではないかと思うのだけれど、これは何度言ってもわからないようだからどうしようもないのである。
と、そういう光景をいきなり目の当たりにすると、わたしはいない相手にブチ切れなモードになり、やらなきゃいけないことの前に「なんでやらなきゃならない?」という片付けをしなければならない。
5歳児を相手にするのは大変であり、疲れる。そこに大の大人が自分が飲んだマグカップすら片付けられない。やんなきゃいけないことをやってもらうことはすでに期待していないけれど、余計な仕事を増やすな。
とまあ、それ以外にも同じようなことが多々あって、たまにしか会わないのにこの有様だから毎日一緒だときっと殺してる。
と、こんな話をすると、
「わかる!」
なんて声が聞こえてきそうである。
今、何をやるべきか?をわかってくれる人はありがたい。それをやってくれるとものすごく助かる。
それは育児でも仕事でも同様であり、そういう人には思わず惚れる。
逆に余計なことをしてくれると不機嫌モードになり、イライラは募り、
「いい加減にしろ!」
と、絶叫したくなる。
しかもやらなくていいことが「好意」を装っていたらさらにムカつく。
育児をしない亭主が出すお茶であるとか、食えないサイズの白菜であったり、状況判断が欠落していて良かれと思っているところに殺意を覚える。
幸いわたしは会社勤務でなく自営であるから、仕事面ではそういう苛立ちはない。
しかし、会社勤務の人の話を聞くとそれは悲惨で、やらなくていいことをやられ、やってほしいことをやってもらえない苦悩が多々あるようである。
結局のところ、人間は独りでいるのが幸せなのだと思う。無論、寂しがり屋で独りが苦手な人もいるとはいえ、独りでいると面倒がない。
とはいえ、独りで仕事をしたとしても営業先や取引先、さらには顧客と人間関係なしには成り立たないから少なからず面倒は生じる。
仕事で面倒を抱え、家に戻ると更なる面倒があれば地獄で、
「離婚する」
と思う気持ちはよく理解できる。
人間はそれほどたくさんの面倒は抱えきれないようにできていて、容量が人それぞれ決まっているから容量オーバーになればどこかを削除しなければならない。
介護なんていうのはその面倒の典型であり、それは小さな子供よりも難儀である。なぜなら、子供は将来があるから面倒をかけても楽しみがあるが、介護には将来がなく絶望の暗さがある。
そう考えると、あまり長生きしないほうが世のためであり、人間は優秀な人ならば70代ならまだ頼れる存在でいられても、さすがに80代となると時代の感覚もついて来れなくなり、お荷物化する。
優秀な人でそうであるなら、そうでない普通の人は70代で困った存在になる。
そうであるのになまじ体が丈夫で死なないとか、もううんざりであって、これは高齢化社会の大問題なのである。
わたしは長生きしてやりたいことをやり続けたいと思っていたが、愛娘を眺めていると、これは早めに死んだほうがこの子にはいいだろうと思うようになった。
それは80代ともなると脳みそも劣化して、やりたいことをやり続けるなんてことが夢物語であることがわかるからで、まあせいぜい70代までである。
あの瀬戸内寂聴さんだって「もう死にたい」なんて言っていたらしいから、老いというのはきっともう自分で自分のことが嫌になる性質なものなのだろう。
やんなきゃいけないことを増やす人間はとにかく勘弁してほしい。そういう人間から離れて独りで過ごし、そしてそういう人間にならないように独りで死ぬ。これが理想である。
ともかく愛娘がまだ5歳であり、日々が忙しなく大変ですでに限界値に近い。そこに洗ってない食器やマグカップがいくつも放置されていたり、食べたくもない白菜があったりするだけで簡単に限界値はオーバーする。
そんな小さなことと思われるかもしれないが、そんな小さなこともできないのか?と言いたくなるのであり、大きなトラブルよりも小さな鬱積のほうが爆発力は強い。
余計なことをされるより、何もしないほうが助かる。
思えばこれはプレゼントなどもそうであろう。
良かれと思ってプレゼントされてもそれが要らないものならもらっても困るし、ドッキリのバースデーパーティーなどもその類で、余計なお世話は鬱陶しいものである。
やんなきゃいけなことをやってくれ。
それが一番嬉しい。