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合理性と非合理性を絶対矛盾的自己同一

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結月でございます。

先日、鬼滅の刃の「遊郭編」が始まるというので、4歳児と並んでテレビを見た。

初回だけ1時間の放映と言ってもCMの数が多いから1時間見た充実感はなかった。底上げされたうな重か、原材料の高騰を値段は変えずにバレないように容量を減らして売るようにしたスナック菓子みたいなものかな。

あとは劇場映画でないのに仰々しいクレジットが最初と最後で長くて、パッケージだけ立派で中身は普通であるありがちな洋菓子みたいだった。

とはいえ、物語のほうはそれなりにこれから面白くなっていくのだろう。

さて、オミクロン株がトレンドである今、まだコロナは話題になるわけだけれど、コロナ禍になって2年の間、いろんな現象が可視化された。そのひとつは合理性と非合理性の対立でないかと思う。

ウイルスに対しては医学的、科学的な対策が必要で、それらは徹底して合理的なもの。いわば非人間的なものであって、そこから提案されるコロナ対策なるものは食事の時にもマスクしろみたいな人間的には素直に受け入れられるものではない。

一方でワクチンは副反応が嫌だから打たないだとか、ひどいのになると不妊になるから打ちたくないといった非合理的な感情が跋扈した。合理的にに考えればワクチンを打ったほうが感染した時より苦しくないし、誰かを感染させないことでウイルスの広めずに済み、さらに誰かを死に至らしめない可能性が高いという事実を非合理的な感情は理解できないのである。

つまり、コロナ禍は合理的な対策をしなければならない反面、非合理的な側面を持つ人間がその合理性に反発することを見せた。

しかし、人間は合理的に徹すると色気がなくて、融通の利かない面倒な人間になる。

そして人間は非合理ばかりだと、思い込みばかりのアホになる。

白痴美という言葉があるが、女は頭の悪いほうが可愛いという昭和的な価値観があって、コンプライアンス的には排除されている価値観であっても現実世界ではキャバクラがあるのは、自分より頭のいい女より自分より頭の悪い女のほうが可愛いし、居心地がいいという男が多い現実を物語っている。

というように非合理は色気にもなり、人気は出やすい。

反ワクチンのトンデモ論など話としては色っぽく、だからYouTubeでもきっちりとしたワクチンの話を合理的にする番組より、トンデモ論の怪しさのほうが再生回数が高くなる。

テレビドラマだって、恋愛ものは非合理な感性の塊であって、恋愛を合理的に解釈してしまえば物語にならず説明文になるからおもしろくない。

要するに人間の非合理性はセンチメンタリズムと言ってもいい。

では、人間は合理的に判断して科学的に間違いのないように生きていくのがいいのか、それともおセンチな非合理性でもってアホ率を高めるほうがいいのか?

わたしは両者を正しく自分の中で共存させるべきだと思う。

つまり、西田幾多郎哲学の絶対矛盾的自己同一である。

その両者はそれぞれに良質なものでなければならない。

良質な合理性、良質な非合理性。

トレンドの話題で言えば「副反応が怖いからワクチンを打たない」は悪質な非合理性だろう。

では、良質な非合理性は何か? それはおそらく美だと思う。上質な美意識が求める美。

しかし、美というのは理想に走りやすい。理想に走ると「消費税は今すぐ廃止!」という主張のように現実離れしすぎて実行力がなく、お花畑になってしまう。

わたしは確固たる合理性の上に花咲く非合理的な美がいいのではないかと考える。

美しい花を咲かせるには土壌が必要である。その土壌もなんでもいいわけでない。その花に応じた科学的な分析に基づいたものでなければうまくいかない。そこに注入すべき栄養素は何なのか、どれくらいの水分含有率にすれば根が腐らないのか、そう言った合理的知識が求められる。

そうした土壌を作ってから種を植える。しかしまだ油断できない。種を植えてからも日照時間、気温、水の量などを合理的に考えてやらねばたちまち芽は枯れてしまう。そして、茎を伸ばしたとしてもうまく花が咲かないかもしれない。だから花が美しく咲くには何をしなければならないか、例えば害虫がつかないよう農薬を散布するだとか、そうしたことが必要になる。

そしてようやく花開いた美しさから感じるものは非合理的なものである。その美を感じるために合理的な知識と努力を費やしてきたのである。

手前味噌な話をすると、わたしは2週間ほど前、クラシック音楽の公演をした。それはモーツァルトだけのプログラムで、はっきり言って非常識なプログラム。メニューにざるそばしかない蕎麦屋みたいなものである。そばが一番好きだから天ぷらもかき揚げも扱わない。温かい蕎麦もやらない。ざるそばオンリー。なぜなら蕎麦が素晴らしいのだからメニューにざるそば以外は必要ない。とまあ、そんな感じのプログラムだった。

要するに合理的に考えれば、オープニングはモーツァルトにして、メインにベートーヴェンくらいにするなどバランスを考えるところが、わたしは非合理的に、つまりわたしの好きなものしかやらないというざるそばしかメニューにない蕎麦屋のようにプログラムを組んだ。

自分が最も美しいと思っている音楽。それはモーツァルトしかない。だからモーツァルトしかやらない。というように美意識を炸裂させたわけである。

しかし、コンサートホールを借りて、奏者を集めて、お客さんに告知して、チケットを販売してということをやらないと美意識は現実のものにならない。絵に描いた餅というか、ただの厨二病である。

つまり、モーツァルトの美しい音楽を現実にするには、花を咲かせる合理的な業務が必要であって、それがないと何も始まらない。

逆に合理性だけだと、どういう美しいものをやるのか?という提案ができず、指示されないと絵も描けない職人のようになる。

音楽そのものはとてつもなく非合理的なもので、合理性を超越した非合理的な感動がある。しかし、そこに行き着くためには合理性がなければならない。

だから、「音楽って素晴らしいんだよ!」だとか「モーツァルトはこの世で最も美しい!」なんてことを力説したって自分の自慰行為にしかならず、それを他者に伝えるには合理性で動いていかないといけない。

しかし、美意識がないものは力強くなれない。非合理性によるエネルギー。いわばアホじゃないかと他人から見えるような思い込み、信念、そういったものがあって物事は動いていく。

そこが弱い企画は魅力的でないし、感動もせず、すぐに忘れられる。

一方、力強い美意識があったとしても合理性の足腰がないと実現不能で厨二病になる。

こうしたことは公演だけでなく、ほとんどすべてのことに当てはまるだろう。

政治で言えば、成し遂げたい公約は美意識であろう。しかし、選挙に勝つにはそのための合理的戦略がないと勝てず、勝てなければ公約は実現できないから口だけになってしまう。

リベラル政党に足りないのはそのあたりの合理性で、信念ばかりが先行して現実的にできないスローガンをハンドマイクで恥じらいもなく叫ぶのである。それは学力がなくて、具体的な勉強もしていないのに志望校は東大!と言っているようなものだ。

日々の会社の仕事がつまらないと愚痴を垂れている人は、おそらく非合理的な美意識が欠如していて、内容は理不尽でありつつもオーダーは合理的という仕事をこなしているからつまらないのだろう。

だから、合理性と非合理性は上手に良質なものをしっかりと組み合わせてやる必要がある。

信念は力強く、美しいものであるが実行力が乏しい。

実務は実行力があるが、それだけだと馬力がない。

だから、合理性と非合理性は矛盾し合う概念だけれど、絶対矛盾的自己同一を成し遂げるのがいいのである。

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