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世界は多様だが、多様性を目的にしてはならない。

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結月でございます。

「多様な社会を目指そう!」なんていうのが今のトレンドで、その対象は今までマイノリティと呼ばれていたジャンルであったりする。

多様がどうとか言わなくても、世界とは最初から多様であり、認めるもなにも世界は多様なのである。

日本においてですら、都道府県で47もあって、それぞれの地域で方言もあれば、顔の形状の方向性も違ったり、生活習慣や食べるものなど多種多様。

というより、自分とまるで同じ人間がいたら気味が悪く、同じ人間がいないから多様が成り立つ。

同じなんていうのはせいぜい趣味や食べ物の好みでの部分的一致くらいで、趣味がサッカーで同じだとか、ラーメンが好きというので気が合うなど、その程度。

しかし、サッカーで趣味が共通していても応援するチームは違うからこそ、海外ではチームが負けて暴動が起こったりするし、ラーメン好きでも醤油ラーメン党は豚骨はラーメンとしては認めないとかその逆もある。

と、世界はもともと多様であるのだけれど、多様性を認めようなんて話は左派リベラルに多い傾向にあり、それは性的マイノリティだとかが対象。

しかし、そうした運動は多様性を目的にしてしまっている傾向が強く、なんだかヒステリックなものになりやすい。

マイノリティに同情的になるがために力強く感情移入してしまうからであるが、ちなみにそうした同情はニーチェが最も嫌ったものである。

多様性を目的にするとどうしていけないか?

それは簡単な話で、多様性を目的にすると多様を否定するから。

自己矛盾を起こしてしまうのであるからいけないのだが、意外と感情移入が強すぎるとその自己矛盾に気づかないケースが多い。

例えば同性愛が嫌いで嫌いでたまらなくて、同性愛なんて異常で病的で、見るのも嫌!という人がいたとする。そういう人はそれほど珍しくはなく、特に年齢が高くなるとその傾向が強くなる。

世代的特徴は生きてきた時代の質に関わってくるから仕方がない。そうであるから、その人の人生を否定はできないわけで、善悪を抜きにして、ともかくそういう人はずっとそういう考えで生きている。

そこにジェンダーというのは多様であるべきだからと、多様性を目的にして同性愛が嫌いな人の考えを批判する。願わくば、そんな乱暴な人はいなくなってほしいと思っている。

そうすると、同性愛が苦手だという一つの種を根絶させることになる。それは多様性の真逆の行為であり、本来であれば同性愛は苦手だというものも多様のひとつであるのに多様であることを目的にすると結果は多様でなくなってくる。

同性愛は気にしないよ、という人たちばかりになるとすれば、その社会は多様でない社会なのである。

だから、本当に多様な社会を目指すのであれば、同性愛が嫌いで苦手である人間の立場も許容すべきであり、それこそが多様なままの姿だと言える。

同性愛をヘイトする風潮があるから同性愛の人が傷ついてしまう。これは事実でありながらも同性愛を認める社会にするために同性愛が嫌いな人を否定しようとすると、同性愛が嫌いな人を傷つけてしまうことにもなる。

こうなってくると道徳的な問題になってくる。

ヘイトの感情を善悪として吟味するという問題。

すると、それは多様性の議論とは別のものになるのであるが、そこが混同されて多様性を認めることが脅迫になり、ヘイトをヘイトでもって批判する、つまり毒をもって毒を制するみたいなことになる。左派リベラルが陥っているのは自らが毒になっている矛盾である。

自らの毒は結果が出ないと他者攻撃な感情を生み出す。

選挙で負けたのは国民のレベルが低いからだとか、脱炭素社会を進めなければならないのにそれを理解してくれない人が多すぎて意識の差を感じてしまう、などなど自分の毒を見ないで他者のせいにする。

世界は最初から多様であるのだから、自分と異なるものがあれば放っておけばいい。

同性愛が自分としては気に入らないのであれば、自分が同性愛者と接点を持たなければいいだけであるし、そもそもそうした人は接点を持っていない。持っていなければそういうものとして放っておけば何も問題は起こらない。

ところが自分の趣味嗜好を正義にして他者の性質を酷評すると差別的になる。そして、差別される側も相手を自分とは異なる種だと認知して攻撃的になる。

多様性を認めることは、なぜその人がそれが嫌いなのか、それを考えてやることなのである。

生い立ちからそうした考えに至ったのか、何かそこにはあるはずで、しかしそれを突き止めるのは精神分析医ですら難しく、特定できるものではない。

でも、嫌いな理由があるはずで、それをおぼろげでも理解しようとすること。自分とは異質なものであれど、その人が持つ理屈を分析してみること。

それができればヒステリックに相手を批判するようにはならない。

とはいえ、生理的に嫌、見るだけも嫌、もはやアレルギー。そんなところが人間であって、理屈で考えるのは不得意なものである。

こういうのは美意識の性質に近い。

自分が美しいと思う信念やこだわり、それが強いと自分の求めるものとあまりに違ったものはアレルギー反応を起こして拒絶したくなる。

だから同性愛が嫌いな人にとっては同性愛の行為は自分の美意識からすると見るも耐えない代物で、同時に同性愛者にとってアンチ同性愛の人は見るに耐えない代物なのである。

しかし、これこそが多様であり、同性愛が嫌いな人がいて、同性愛でいる人がいて、両方オッケーという人もいて、別に興味なしという人がいて、様々な立ち位置、見解が多様となっている。

あとはそれは数の差に過ぎず、選挙の得票数みたいなものである。

数が多いほうの嗜好に合わせたほうが社会は作りやすく、数で言えば多数派に合わせたほうが幸せな人の数が多いとなる。

ただそうなると、少数派が苦しむからそこにも理解を示そうという話であって、それは人権だとか道徳の範疇になる。

しかしながら、そういう小難しいことをどうにかするより、自分の好みに合わない人、自分の好みを否定してくる人には接しないほうがうまくいく。他人の考えを変えてやろうなどとは思わないほうがいい。

なぜなら、他人の考えが容易に変わるのであれば、自分の考えも容易に変わるはずであるから。

同性愛を理解してもらおうという人が同性愛を否定する考えに変わるわけがないことは同時に、同性愛が嫌いな人は同性愛が好きになることはないという関係が成り立つ。

はっきり言えば、社会を変えたいのであれば、ド派手なパフォーマンスで自己主張するしかない。

同性愛は今の日本ではそれほど攻撃対象にはならないのは、例えば美輪明宏さんみたいな人が表舞台に出て、自分をさらけ出して生きてきて、そういうスターがいることで社会は少しずつ変わっていく。

しかし、そこまで根性がある人は数少ないのであるから、おそらくは数人ほどのド根性な人のおかげで社会は変わるのである。

プロ野球を変えそうなのは、ビッグボス新庄剛志であり、ああいう人のおかげで旧態依然な悪習はなくなっていく。

美輪明宏さんにしても、ビッグボス新庄剛志にしてもヒステリックな批判を口にするのではなく、自分の姿、自分の行いを大勢の人に見せることをしている。

ともかく、単一的な社会はおもしろくないものだ。いろいろあったほうがいい。

と同時に、単一的な社会もおもしろい。いろいろないほうがいい。

今はポストモダンも深部にまで広がった時代であるから、価値観が多様細分化し、つまりキャラが薄くなった。個の力が乏しくなった。

昔の歌手やアイドルに強烈なキャラがあって、そこに関心が一極集中したのは価値観の数が少なく、単一的な社会であったからである。野球は巨人。だから野球中継は巨人戦である。

そういう時代は巨人戦だけで野球の関心が異様に高かった。しかし今は分散して巨人も権威がないし、それぞれ程々で野球中継もなくなってしまった。

だから、多様でない社会にもおもしろさがあり、多様である社会にも違ったおもしろさがあり、どちらがどうという話ではない。

とは言え、エントロピーの法則のように一度分散してしまったものは元には戻らない。だからますます価値観は広く浅くになっていき、なんとなくニュートラルな世界になる。

多様性を認める社会は意外と無関心な社会なのかもしれない。

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