結月でございます。
選挙が近いらしく、選挙の話題が多い。なんとか政権交代したいと考えている人たちは、しきりに若者は投票へ行こう!なんてアピールしている。しかし、考えてみれば、若い人が政治に積極的と言うのは気味が悪いもので、若いと政治なんかより率直に楽しいことに興味があってそれに夢中になるほうが健全。
と、投票にはまるで行く気がしないわたし。これはずっとそうだから行かないことにはなんとも思わない。
でも、これでも各政党の主張はそこそこ把握していて、記者クラブの党首討論は全部見てる。多分、律儀に投票に行っている人で党首討論を全部見てるって人は少ないと思うよ。
それでも投票には行く気がしないのは、なんだろうね、民主主義がそれほど素敵なものとも思っていないせいなのか、政治家を志す人のわざとらしさがキモいとか、イデオロギーや主義主張というもので世界は描けないことがわかっているからなのか、ともかく投票に行こうなんて気が起こらない。
それは超絶運動音痴のわたしに向かって、
「バスケやろうよ!」
と、誘われているような感覚で、バスケットボールなんて代物はわたしから何光年も離れたところにある。
とまあ、投票に行かないわたしだけれど、ここでわかったのは、それはわたしが若者だからってことだ。
そうか、若者は投票率が低いのであって、わたしは若者だから投票に行かない傾向が強いというのは理屈が合う。
で、若いって何か?を考える。
多分、若さっていうのは、目標達成できていない状態だと思うわけ。
若いとやりたいこともやれずに歯痒い思いをするもので、あれやりたい、これやりたい、でもまだ結果が出てない。それが若さ。
わたしが自分を振り返って、目標達成できた気分なんて一度もないし、やりたいこともまったくやりきれちゃいない。どこかの組織や会社に所属して生きていないから肩書きもないし、要するに履歴書がない。
だから若いのだろう。
何かの組織に所属して、それなりの肩書きを持つと人間は老ける。その肩書きは心地いいものかもしれないけれど、肩書きは人間を拘束する。肩書きゆえにできないこと、やりたいけど自粛しなければならないこと、そういったことが増えて老けてしまう。立場を考えて生きるようになるから。
若者の大半には肩書きがない。自由であって、制限される地位がない。
と、若いわたしはそんな肩書きにちょっと憧れてみたりすることもあるにはある。誰しもがわかる肩書きを持って、
「エッヘン」
なんていう昭和的死語でいい気持ちになってみる。
ただ、世の中では肩書きがあったほうが便利だという理屈はよくわかる。だからこそ、肩書きでないけど自称何某なんていう人が増えて、名刺に自分で書き込んだりする。
なんとかコンサルタントもそうだし、フラワーアレンジ云々だとか、所属はないけど自称で肩書きを作る。
そんな自称は胡散臭いけれど、国会議員なんかは正式な選挙を経て当選しているから自称ではなく、正真正銘の肩書きなのである。その肩書きでいろんなことがやりやすくなるから、選挙に出てでも肩書きはほしくなる。
そう考えると、選挙というのは投票するのではなく、立候補するほうが楽しいものに違いない。
消費者であるより、製品を開発するほうがおもしろいのと同じ。
昔、今村昌平監督の映画学校にいたとき、そのとき今村組の美術監督が、
「映画は見るもんじゃねぇ!撮るもんだ!」
と、楽しそうに絶叫していた。
まあ、おもしろい人だったけれど、「映画は見るものでなく、撮るもの」というのはものすごく腑に落ちた。
要するに与えられる者になるのではなく、与える者になるということ。
眺めている者になるのではなく、実践する者になるということ。
主体的に行動するほうがおもしろいということ。
そう思うと、どんなクソ政党でも、どんな泡沫候補でも、主体的に自分でアクションを起こしているのだとわかり、政治的意見に関係なくおもしろい人なんだなとわかる。少なくとも床屋談義で政治家の悪口ばかり言いながら、投票する側、つまり消費者である人よりは人間的には存在感がある。
きっとわたしが投票に行かないのは、投票に行く行為が消費者になっている自分を感じさせてしまうからだろう。
かといって、自分が衆議院選に出る気などないわけで、そうなると投票に興味がなくなる。
ところで記者クラブの公開党首討論を見ていて、政治家の人って本当にトークが上手だなと感心する。
党首同士が質問し、それに答えるのを見ていて、悪意のある質問をされても、そこに激昂することなく、さらりとかわし、ここで言ってはいけないことをしっかりと把握して無難に回答をまとめる。それは岸田首相も上手で、やはり与党をやるのはそういう力なのだと思った。
どうしようもないのが社民党の福島党首で、やはり単細胞的な批判ばかりしている人はそのあたりの機転が弱くて、一方的なことしか言えない。
結局一方的なことしか言えない人にはそのコアに同調する人しか投票しないから選挙に弱いのだろう。
これから世界は「寛容性」が重要なキーワードになるとわたしは思っているのだけれど、要するに程よい緩さみたいなもの。
こだわりとか信念とか、そういう暑苦しいものはあまり支持されず、まあまあ緩い感じで、排他的でない融通の良さみたいなものがあったほうがいい。
与党を批判する野党、特に左派の共産党や立憲民主党、そしてれいわなんかはその寛容性が乏しい。
皮肉なことに、本来、夫婦別姓やLGBTなど社会の寛容性を求める立場に限って、寛容性が乏しく、信念に凝り固まり、自分と異なる立場には排他的な批判をしたりする。
それに比べると、保守政党の位置付けであるはずの自民党のほうが寛容性に富んでいて、党内に右派からリベラル寄りまで幅広く、その緩さが選挙の強さになっている。
とまあ、投票には行かないくせに一応、各政党のことはわりかし見ている。
でもやっぱりね、選挙はものすごく金がかかるというのにそこに立候補しようとするんだから、立候補者って凡人ではないと思うんだよね。