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機嫌が悪いと料理はまずい。

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結月でございます。

今日は公演のための書類を作成する作業に丸一日。しかし、これで公演に関しての事務的な作業はほとんど終わり、あとは集客に専念。

音楽の場を創るというのは、実は音楽そのものの仕事などほんのわずかで、実務的な作業や交渉、金の計算、そういったものがほとんどであり、言ってみれば音楽そのものなんてプリンの上に乗っかっているシロップ程度である。

大半が煩雑極まるいわゆる「メンドクセー」作業ばかりで、要するにクリエイティヴでないおもしろくないことをたくさんやらないと公演は実現できない。

これは料理に自信があるから店を出そうとすると失敗するのに似ていて、そこには実務的な能力がないとならないのである。

これは政治的にいうと、左翼リベラルが駄目なのと似ていて、理念ばかりで実行能力がなく、また実行するための現実を知らないとスローガンだけの空絵図になる。そのため批判ばかりになって実現させる足腰が育たない。

と、こんなわたしがこんなことを言うようになったのは、美しい理念は実行力がなく、実行力がないとその理念は夢物語でしかなく、現実のものにできないと嫌というほどわかったからで、自分の思い描くことをやりたいのであれば、何よりもそれを支える実務ができるようにならないといけないという「当たり前」にたどり着いたから。

しかし、実務ばかりでゴリ押しで進めるのも色気がなく、そういうものは人は喜ばないし、どちらかというと消費者に優しくない仕事になる。銀行などその典型だろうか。

というわけで、比率としては、理念1.5、実務能力8.5くらいがいい。

さて、公演が日に日に近づいてくると、こんなわたしでもストレスが発生しているのがわかる。

これほどストレスがあっただろうか?と過去に行った公演を思い返してみて、多分同じだったと朧げに思う。

喉元通れば熱さ忘れるで、意外と昔のストレスは覚えちゃいない。でも、久しぶりにストレスにさらされると確かにこの感覚は以前にもあったと思い出す。

頭痛が慢性的になるだとか、体が重くなるだとか、身体的なこともあったりすれど、顕著に出るのは料理をする気がなくなること。

うちには4歳の女の子がいるから、保育園が終わるといつも夕食を作るのだが、ストレスがあると料理をする気がなくなる。

やはり料理はおいしいものを作ろうと思ってやらないとおいしいものはできない。なんとなくイライラしていたり、不機嫌であったりすると「おいしい」を考えるのが鬱陶しくなって料理が煩わしくなるのである。

だから、外食が多くなり、保育園が終わると4歳児に、

「どこか食べに行こうか?」

と、声を掛ける。

昨日は4歳児を連れてスーパーに行き、今日の分の野菜や肉を買ったというのに今日はまるで料理をする気にならない。ご飯を炊くのも億劫。

というわけで、またしてもガストに行ってしまった。

4歳児はアンパンマンのお子様メニューを頼むのが定番。そして、アンパンマンのポイント券をもらい、5ポイント集めてアンパンマンプレートをもらうことを狙っている。

とまあ、おいしいものなんて心に余裕がないとできないもので、そうなると緊急事態宣言中で制限を余儀なくされた飲食店はいつものメニューでもおいしいものはできなかったのではないかと推測する。

酒は出すな、アクリル板を設置しろ、お客には入店時に検温、夜は早くに閉店。そんな状態では料理なんて作る気はしないだろう。

これは音楽の演奏もきっと同じで、コロナが騒がれ出したときは衝撃的で、演奏中にマスクしろ、声楽がある場合はその顔の前にアクリル板を立てる、奏者同士は距離を空けて、客席も同様に一席ずつは離して座る。

今は慣れたと言っても、それがガイドラインとして提示されたときはいい音なんて出やしない。

幸い、11月のマロオケではそこまで求められることはなく、音楽的な制限はほとんどないと言っていい。

と、そんなストレスの中で生きているのだけれど、これはこれでいいものだとMっぽい気持ちでいる。

そもそも自分で始めた公演だし、好きな音楽をやってるわけだし、思い通りにいかないことなんて毎度のことで、思い通りにいくこと自体があるわけないのが現実だとよく知っているし、他人にやらされた嫌なことでないからストレスはストレスでもそれは内的なもので、外圧からのものでない。

そういうストレスがあるからこそ、頑張れるのであって、何もやることがない「暇」よりはよほどいい。暇は恐るべしで、暇ほど人間を腐らせるものはない。

それに演奏会なんてしょっちゅうできるものでなし、数年に一度でオリンピックみたいなものなのだから、この演奏会ができるというだけで実はハッピーなのである。

できるだけよりよくしたいと思う気持ちが源になっているストレスであり、良質なストレスに違いない。

コロナのせいで制限がかかったり、思うようにいかないことが多々あれど、そもそもこの企画自体がコロナがあったからこそ成立したものであるのだから、やるだけやればいいじゃないか。

多くの人にも助けてもらったり、お世話になったりして、いやいやこれはかなりハッピー度が高い。

そう思うと、愛娘に料理を作ってやろうという気にもなってきた。

愛娘はわたしの料理が好きなのである。そう本人が言っている。しかし、このところストレスで出来栄えがイマイチなものが多かった。4歳児もそれを感じて「おいしい」とは言わない。そりゃそうだ。作った本人がイマイチだと思っているのだから。

と、そんな愛娘に毎晩バイオリンを教えている。

そして、こんなことを口を酸っぱくして言っている。

「あのね。きれいな音を出そうと思わないときれいな音は出ないんだよ。ということは、きれいな音を出そうと思うときれいな音なんて簡単に出るんだよ」

何を偉そうに言うてる。イマイチな出来栄えの料理を食わせといて、どの口でそんなことを言ってるんだ。

なんて思いつつ、バイオリンを弾かせている。

しかし思いのほか、「きれいな音を出そうと思わないときれいな音は出ない」という当たり前のことは世の中ではあまり知られていないというか、意識されていない気がする。

「そう思う」ことが才能なのかもしれない。

きれいな音が自分の中にないといけない。きれいな音が自分の中で生まれていなくてはならない。

そう考えると、それは才能だ。

さて、厳密に言うと、きれいな音でなく、美しい音。きれいな音はつまらない。美しい音でないと。

きれいと美しいはまるで違う。

きれいは絵葉書の絵で、美しいはアートである。

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