結月美妃.com

結美堂の結月美妃公式ブログ

【スポンサーリンク】

古いか新しいかでなく、ニーズの有無が大事

【スポンサーリンク】

結月でございます。

先日、4歳の愛娘を連れて宇都宮のショッピングモールへ行き、そこにあった書店で立ち読みをした。

ベストセラーとして平積みされたその本は佐藤愛子の『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』というエッセーで、佐藤愛子、まだ生きてるのがすごい…なんて思いつつ、本を開く。

佐藤愛子のエッセーはおもしろく、昔かなり読んだ。エッセーではないけれど、佐藤愛子の心霊体験の『私の遺言』は実は心霊家であるわたしはかなり読み込んだ。

さて、そんな佐藤愛子の新刊をチラリと読むと、虚脱した感じになって読む気がしない。

「古い…」

瞬間的にそう感じてしまって読み進めることができなかった。

そこに書かれていた内容は相変わらず佐藤愛子で、昔からの佐藤愛子節で、昔、わたしがよく読んだそのままの文体で、でもテーマは新刊だけあってコロナのことなど今を話題にしている。

それでも読めなかった。受け付けなかった。まだこんなことやってるのかと時代錯誤を感じてしまった。

しかし、それは九十八歳の人だから仕方がない。最新の情報を手にし、咀嚼して発信する年齢ではない。

つまり、コロナネタに関してもそれを論じることの情報量が少なすぎて、

「それは事実と違うでしょ」

と、ひと目見てわかってしまう。ワイドショー程度からの情報で思うことを書いているように見え、それは根拠の乏しい思い込みにしか見えなかったから。

昔はそれでよかった。そういう床屋談義でよかった。そこに文学的なテイストがあればおもしろいエッセーになる。

ところが今はそういう時代でない。猫も杓子もエビデンスを口にする。要するに利口になってる。本当に詳しいことまでは理解していなくとも、Googleの検索である程度の知識が共有されているのが今であり、単なる思い込みはデマカセであるとすぐに認知できる。

だから、佐藤愛子は真剣に書いていたとしても、

「それは違うよ」

と、文学以前の根拠の弱さがわかってしまって、読んで楽しむことができないのである。

しかしながら、佐藤愛子のことを知っているのは、おそらく団塊世代からであり、いわゆるネットに疎く、情弱と言われる世代、いまだにテレビや新聞を情報源にしている年齢層は佐藤愛子の本を読むと共感できてしまうのだろう。そのニーズから売れているのである。

世の中に対する痛快な批判というのは、昔はこういうエッセーでウケたもので、しかし今はTwitterもあり、個人メディアとして好き勝手に批判できる。そんな批判の多くは得てして的外れであったり、価値のないものばかりであるけれど、それでも量が膨大であるから中には痛快なものもあり、それはリツイートで拡散される。

そんな最新の痛快さから見れば、九十八歳のエッセーで書かれる痛快さは気の抜けたビールのようであり、喉ごしもなく、切れ味もないように見えてしまう。

それだけ大きく時代が変わっているということ。

とはいえ、九十八歳でそれだけ書けるのはすごい話で、100歳に到達するのではないかと思う。

ところでそんな時代の変化、世代の進行を感じることはわたしもある。

着物の仕事を立ち上げたのは確か2006年あたりで、すでに15年は経っている。

その頃は着付けを習いに来てくれるお客さんも20代くらいの人もいて、一番多いのは当時で30代だった。仕事も落ち着いて、給料もしっかりもらえて、大人の女としての生き方を自覚する年頃で着付けを習いたいというニーズがはっきりとあった。

しかし、15年経つと、当時アラサーだった人は40代半ばになっている。

そして今は20代や30代で着物を着ようというニーズはあまりなく、着るとしても観光地でレンタルして着物気分といった具合で、しっかりと着付けを身につけようと思うことはほとんどない。

だから、銀座にいる頃は若いお客さんたちと共に着物を盛り上げていけたのが、今はそうはいかない。

それどころか、若いお客さんがいなくなって、いつしかアラフィフ、もしくは50代より上ばかりになっていたりする。

結美堂はわたしがこんなだから、着物なのに若い世代のお客さんが多かった。それが過去形となり、当時の若い世代がアラフィフになったり、アラフォーに差し掛かっている。

これに気がつくと、ちょっと衝撃的な気がして、わたしも古くなっているってこと?なんて思ったりもする。

自分では古くはなっていないと思うのだけれど、愛娘はいつの間にか4歳半を超えているし、生まれたときからもう4年以上経っている。

自分は古くなっていないはずなのに、周囲を見ると年老いていたりしていて、

「あれ?」

と思うわけである。

ただ、自分が古いことと若さは異なる。情報の新陳代謝がないと古臭い人間になって、わかりやすい例だと、自分の子供が銀行に就職したら安泰だと思うような親。

若さとは生き生きと物事に取り組んで日々を過ごしているかであり、そういう意味でもわたしは自分は若いと思う、というか、変わりないなと思う。

しかしながら、今自分が取り組んでいる仕事内容は今の20代には通じないことであるのは確かで、それを思うともしかして自分は古くなったのでは?と疑うこともある。

できるだけ価値観を若い方にフォーカスすること。それが大事で、そうしていると新しいものに拒絶反応が生まれない。

一方でいつまでも青臭いままなのも成長がない話で、人間は熟達していくところにも魅力がある。

昔は理解できなかったものが今はわかるようになる。それがわたしには多々あって、昔はガキだったなと思う。

「何かを得れば何かを失う」というのは鉄則で、若い無邪気な切れ味はなくなっても、年を重ねることで奥行きを深めることはできる。

問題はニーズであって、古いも新しいもニーズがなければおもしろくない。

佐藤愛子はわたしから見れば恐ろしく古く、相変わらずで変化のないものだったけれど、団塊世代以上のニーズがあって、九十八歳で本を出せている。

そして、新しいものであってもニーズが得られなければ、それは世に出ない。

いくら品物が良くてもニーズがないと生産終了になる。いいものなのにもったいないなんて言い草は詭弁であり、ニーズがないものには金も労力も投入することは物理的にできない。

今はまだギリギリ着物の仕事をしているわたしだけれど、それはそう遠くない将来、そんな仕事もしなくなるに違いない。

着物を誂えて着るというニーズは毎年減っているし、着物を染める職人たちがそもそも高齢化していなくなっている。

いくら着物が美しいものだと言っても、ニーズがなければ存続できないのだから、

「昔、着物の仕事してたよ」

なんて言う日は来るだろう。

しかし、今の時代の中でやりたいことを考える生き方をしていれば、また新しい仕事ができる。もし、過去を参考にしてしまうとニーズを捉えられなくて仕事は続けられない。

そういえば、週刊文春が電車の中吊り広告をやめるらしい。これも時代を如実に表していて、スマホ時代では電車の中ではみんなスマホを見ているのであって、頭上に広告があることなんて気づきやしない。つまり、無いことと同じなのだ。だから、そうした広告モデルはやめる。多くの人の視線はスマホに向いているのだから、広告はスマホの中に出す。これは当然すぎること。

中吊り広告と同じく、自分の中で古くなっているものがあれば、それは廃止するのがいい。見てもらえていないのにそこに執着することはよろしくない。

それはきっと身の回りにある使わないものを処分するのと同じようなもので、タバコを吸わなくなったら灰皿は捨てる。その程度なのだろう。

時代に伴って、タバコを吸うこと自体が古いのであるから。

【スポンサーリンク】