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あらゆる才能は、山があるから山に登る。

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結月でございます。

今日はオリンピックのスポーツクライミングなるものを見ていたが、あんな小さな窪みに指先だけでつかまり、懸垂状態でぶら下がっているなんて、

「奇人変人だよね!」

と、やはりオリンピックに出る人は奇人変人なのである。

しかし、あんな斜面に登りたいなんてアホじゃないかとわたしなんかは思ってしまうけれど、ああいうのは登山家に対して、

「どうしてあんな危険を冒してまで山に登るのですか?」

と尋ねたら、

「そこには山があるからだ」

と答えられるのと同じで、クライミングも登りたくてたまんないから登っている、そういうことだなと選手たちを見てわかった。

そもそもオリンピックの種目は野球やサッカーを除いてほとんどがマイナースポーツで、はっきり言って金にならない。いくら大企業の部に所属するとしてもサッカー選手のように大金持ちにはなれないし、日本は金メダルを獲ってもIOCからは500万円しか奨励金はもらえないし、銅メダルだとたったの100万円。

メダルを獲るまでに小さな頃から金をかけて育成してきた金額を考えると大赤字で、しかもスポーツ選手は若いうちしか現役でいられない。30歳を過ぎれば引退を考えるような世界で、飯を食っていくことを考えたらとにかく割りに合わない。

それなのに奇人変人になるまで鍛錬をし、自分を追い込み、オリンピックを目指すというのは、

「山があるから山に登る」

の心理に他ならず、目的は金じゃない。やりたいからやる。やるからには徹底してやる。やりたくてやりたくてしょーがない。それをやるのが自分であり、それをやらない自分なんて存在しない。

とまあ、そんなところだろう。

結局、オリンピックに出られるところまで行く人は全体から見るとごくわずかで、卓球女子だって日本全国の卓球女子の中のたった3人。スポーツクライミングの女子で決勝に残っていた日本人はわずか2人。

つまり、やりたいからやる人間の中でも驚異的な執念がある数少ない人たちであり、やっぱり奇人変人なのである。

しかし、思えば才能とはそういうもので、執着心が弱いと才能には至らない。

普通ならある程度やって途中で嫌になってしまったり、いいところまで行っても頂点での決戦で挫折したりする。

だから、山があるから山に登るエネルギーがとてつもないことが才能なのである。

そこにはなぜそれをやりたいかという理由はない。あるようでない。やりたいからやる。やらないとウズウズしてしまって居ても立ってもいられない。

やる理由がないからこそのエネルギー。もしその理由があるなら、行為が説明的になってしまってたちまちエネルギーがなくなる。

例えばオリンピックに出ることが目標で云々なんてことが言われるが、それはただの後付けの説明で、根本的なことを言っていない。根本はもっと無目的で、動物的で、本能的で、理由なし。山があるから山に登るんだ。それだけ。

そうでないと金にもならないことに人間は一生懸命になれない。

だから、オリンピックに出場する奇人変人たちの人間離れした姿に感動する。

多くは理由もなくやりたいからやることに没頭できない人ばかりだから。普通だったら、

「こんなこと続けてても意味ないな…」

そう思うものだから。

才能あふれる人は練習量が半端でないのも、やりたくてやりたくてしょーがないからずっとやってしまう。

わたしはスポーツ関連の知り合いはいないが、クラシック音楽関係にはそこそこ知っているけれど、一流の演奏者は皆、四六時中楽器ばかり弾いている。休憩時間なのに弾いている。弾きたいからずっと弾いている。そりゃ、上手くなるに決まってる。

山登りと同じように楽器があるから弾いている。理由なんてない。弾きたいからひたすら弾いている。そんな人ばかり。

要するに子供なのである。子供が遊びに夢中になるのと同じ。そんな子供心のまま育つと才能になる。ところが多くは子供心を否定されて、社会に適応するように矯正されていく。そしてほとんどがサラリーマンになる。

なぜそれをやるのか理由を求められるとつまらないものだ。理由を説明しなければならなくなるから。そしてその理由を捏造するようになる。そうなると物事に夢中になんてなれやしない。

ところが人間は何かに夢中になりたい。そういうものだ。でも子供心は成長に伴って枯渇してすでにない。だから趣味を探そうとする。しかし、探したものは没頭できやしない。三日坊主の原因はそこにある。

さて、現在、わたしも公演に向けて夢中である。やりたいからやってる公演。なんでこんな大変なことをやるのか自分でもわからないし、その理由を考えることもない。やりたいからやる。だから、公演意図なんて説明できない。

「モーツァルトのレクイエム、あれすげえよね! グワっとくるよね!」

とか、そんなことは言えるけれど。

でも、もし新聞に載せるインタビューをされたとしたら、

「グワっとくるから、いいんだよね、あの曲は」

なんて言ったら記事にならないから、なんかテキトーに体裁よく理由づけはできる。新聞記事は得てしてそういう話ばかりだから新聞を読んで感動したなんて話は聞いたことがない。

ともかく、モーツァルトがすげえ曲を書いちまっているのだから、仕方がない。それをまたすげえメンバーで演奏したいじゃん。おもしれーじゃん。聴いてみてーじゃん。だからやる。

まあ、要するに馬鹿なわけだ。やれば大変だし、金のリスクはあるし、そんなもん、やらないほうが楽に決まってるのにやる。馬鹿だからやっちゃう。

山に登れば死ぬかもしれないし、怪我するかもしれないのに山があるから登っちゃう。それと同じ。

でも、そういう馬鹿なことのほうがおもしろい。やり甲斐がある。そして感動がある。

説明は不要がいい。

この世の中はあまりにも説明的すぎる。

山があるから山に登る。

音楽があるから音楽をやる。

それでいいんじゃないの?

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