結月でございます。
11月22日(月)のマロオケ公演、やはりこのコンサートがすばらしすぎる。さまざまな意味ですばらしすぎて、一口には言えないから公演までの6ヶ月の間、思いつくままに話しておこう。
しかし、2016年にサントリーホールでモーツァルトの交響曲を一挙に6曲もやり、さらにマロオケの東京初公演でもあったあのコンサート。愛してやまないジュピターで終えて、もうこのコンサートができたからいつだって死んでもいいと思った。つい最近までそう思っていた。でも今は違う。11月22日のコンサートをやらないうちには死ねない。
モーツァルトのレクイエム。これをやれたらまたきっといつ死んだっていいと思える。
レクイエムだけでない。オープニングではモーツァルトらしい華やかさで始まる31番「パリ」。そしてその次は38番「プラハ」。
38番は人間的な意味で、人間的な立ち位置で最も好きな曲。ジュピターが最高だけれど、ジュピターはもう人間離れしてしまって、あれは天界の音楽。しかし、38番は人間の立場から神へのつながりがある。
昨日も38番をCDで聞いてしまった。第1楽章もたまらないけれど、第2楽章のあまりの美しさに涙ぐんでしまう。第2楽章は冒頭から美しすぎる。
そして、いよいよレクイエム。
レクイエムには特別な思い入れがある。レクイエムの生演奏を聴いたのは一度だけ。
圧倒されてしまった。それはパリで最も古い教会、サンジェルマン・デプレ教会でのことだった。25年前のことだった。
そしてついに25年経って、マロオケで2度目を聴くことになる。
条件が揃った。レクイエムはコンサートで企画したい曲ではあったが、平常時にやってもそれほどの意味がないと思っていた。日本はキリスト教国でもない。
しかし、コロナが訪れた。世界中に恐怖と苦しみが広がった。世界中でたくさんの人も死んだ。
やるべき条件が現れた。
そして、11月22日はモーツァルトがちょうどこのレクイエムを執筆していた時期だ。絶筆までカウントダウン。ちょうど230年前の11月22日、モーツァルトは命が尽きようとする中、レクイエムを書いていた。
そして230年後の11月22日、レクイエムのコンサートをやる。
偶然ではあっても、意味深ではないか。
わたしはこのコンサートにモーツァルトの霊が降りてくる気がしている。
ここまで奇跡的なことが続くことなんて普通はありやしない。でも、この公演に至る軌跡は人智を超えた出来事が重なった。
わたしは単にそれに乗っかっただけで、導かれるように実務をこなす。
きっとこれから公演まで、困難な現実にぶち当たることだろう。しかし、祈りながら、懸命に、導かれるその道筋に従って進んでいこう。