結月でございます。
「プロフェッショナルとは何か?」なんて訊くNHKの番組があるようで、ちょっとだけ垣間見たことはあるけれど、なんだか趣味が悪いし、大袈裟だから気持ち悪くてまともに見たことがない。
プロ意識って言葉もある、でも、プロってなんのことなのかなと思う。
しかし、プロとはしっかりとあって、わたしだってコンサートを企画するときは当然、プロ奏者にしか依頼しない。
プロ奏者と一口に言ってもいろんなステージがあって、一応音楽大学を卒業して、仕事は大手楽器店のレッスン講師ってのも多分プロで、そういう仕事をしている人も自分がプロだと思っているに違いない。
あとは「演奏会をやってます!」なんて言っても自主公演ばかりで、お客さんは自分の知り合いばかりっていうのもいる。
多分プロとは他人からの依頼によって仕事をこなせるっていう立場なのかもしれない。
さらにそこにもグレードがあって、世界的指揮者なら一公演でとんでもないギャラだったりするし、器楽奏者だって世界的ソリストとなれば事務所を介して数百万は提示される。あとは一公演でサラリーマンの1ヶ月分の給料くらいにだったり、さらに数万円、その下は数千円というのもあるにはある。
そんなことを考えると、プロフェッショナルとは他人から依頼を受けることができて、さらにその技能で生活費を稼ぐことができる人たちと言えるだろうか。
もちろん生活ができると言ってもワンルームマンションで一人暮らしレベルから、豪邸レベルまである。
やっぱりプロにもいろいろいるわけだ。
ところでこれがサラリーマンであったならば、給料で生活ができて、その技量も素人でなくてもプロという言い方はあまりされない。
「どこそこの会社で、こういう仕事やってます」なんていう紹介になる。
どうやらプロとは会社とは独立して動いている存在らしい。
でもある程度その業界で名が知られていないと、それはプロとは呼んでもらえず、自分でもプロとは言わず、
「フリーターです」
なんて紹介になる。
Webデザイナーとか、IT関連は特にフリーター的な人が多い。
今は兎角、ポストモダンがますます進行しているから、中央となる価値観が薄れていて、プロとアマチュアの境目がなくなってきている。
YouTubeなどその最たるもので、プロのテレビマンが作るテレビ番組よりも素人が投稿するYouTube動画のほうが見る人が多く有名なんてことはザラにある。
要するにプロより技術は低いが、プロよりおもしろいってことが普通になっている。
ただまあ、そこにもいろいろあって、楽器演奏などはやっぱり素人は素人で、素人がいくら頑張っても超絶技巧は弾けない。それはプロという地位にいる人でないと演奏そのものができない。
動画作成などは動画ソフトが優秀であるから、素人でもある程度はできるようになっただけの話で。
ただし、おもしろいかどうかは技能とは別物であって、わたしの仕事を例に出せば、一流の京友禅の職人が作った技術的に見事なものはたくさん売れることはなく、支持されているのは日本の伝統文化に根ざしていないドきつい色と柄のプリント物の浴衣だったりするし、クラシック音楽なんてファンの割合が人口に比して少なすぎて、いくらいい演奏でもホールに空席が目立つことは珍しくない。
それはおもしろいと判断されないからだろう。それが安直なおもしろさであるか、文化的に価値あるディープさがの違いが伴うものだってことは言われなくてもわかるけれど、事実としてはそういう結果がある。
さて、そんなことがあって、
「ポストモダンだよね」
って改めて痛感する一方、かく言うわたし自身もプロっていう意識なんか持たずに仕事をしている。
やりたいことをやったらこうなっただけで、アカデミックな場にいたわけでもないし、やりたいなって思ったことをゼロから始めたら、なんか一応実績みたいなものが歩いてきた道を振り返るとあったという感じ。
あとはどこかの会社に属するのではなく、自分の会社として自分でやってるからプロなのかもしれないけど、プロでないかもしれない。
でも、着付けにしたって着付け師を名乗っている人の着付けを見て、
「こいつ、下手くそ。アタシのほうが断然上手いし」
と頻繁に思うし、着物のコーディネートだって自分の美的感覚はズバ抜けてると思ってるから、プロと自称するコーディネーターの着物を雑誌で見たって特段すごいとは思わない。
ともかく、自分にプロという自覚がないというか、そこに辿り着きたいとも思っていないからプロじゃないかもしれないし、でも傍から見ればプロなのかもしれない。
コンサートのプロデュースだって別にどこかの事務所に勤めた経験もないし、楽器商やってたからたまたまプロ演奏者に出会ったりして、たまたまコンサートをできないかってとある総合病院から言われたからやったのが最初で、コンサートの要領なんて知らないし、知らないけどこういうコンサートをやるにはどうすればいいか逆算してやったらコンサートになった。
そんな出発点から小さなコンサートを重ねながら、サントリーホールに到着し、それで終わりかなと思ったら船橋市から依頼を受けてまたコンサートやったり、それが終わったら次はいつできるかわかんないね、だって栃木にいるし、なんて思っていたらまたやることになった。
やりたい衝動が起きた時にしかやらないから、とりわけコンサート事業で食っていこうとも思っておらず、そう考えるとやっぱプロじゃないか。
ともかく、やりたいことをやって、やったことによっていろいろ勉強して、
「ああ、そういうことやっとかなくちゃいけないのね」
なんて、素人なことをいまだに言っている。
となると、やっぱりわたしはプロでないってことになるけど、素人的な強みがあるのはわかっている。
つまり、業界に属してしまうと、そこに構築されたルールで動くようにあり、そのルールを理解していることがプロとしての仕事となりやすい。
もちろんそのルールややり方はその業界が長年培ってきたものですごく説得力がある。でも、その反面、新しいことができにくくなる。だって型にハマっちゃうから。
芸術作品って、そういう型をぶっ壊す新生勢力が出てきて、その勢力がまた型を作って、さらにまた新しい勢力がぶっ壊すという繰り返しで発展する。
音楽だってモーツァルトはバロック的なものを壊しただろうし、絵画だったらセザンヌはそれ以前の画法を否定してキュビズムにつながる描き方をしたし、映画だったらゴダールは進行する時間と映像は同期することを否定してジャンプカットをやっちまった。
つまり、長い年月で築き上げられたものを吸収しながらそれをぶっ壊して新しい試みをやる。
これは業界的なルールにどっぷりになるとできない試みで、反骨精神と何より素人的図々しさが必要とされる。
素人は何も知らないからゼロベースで考えることができる。
「こんなんこと、やりたいんだけど、こうやっていい?」
なんて質問は業界的にはあり得なくて、それはちょっと…となるのだけれど、素人はそんなこと知らないからズバズバできて、その結果、それができてしまったりする。
それに素人は事情を知らないからそれが業界的に禁じ手であってもどこ吹く風で気にすることがない。
わたしはそんな素人っぽさでずっといようと思っていて、だからアカデミックなことは嫌いじゃないし、敬服もするけれど、自分はそこに属する気がない。
それはまあ、人から形を作られたら嫌っていう身勝手な自由があるからで、だからチームプレイは苦手だし、人付き合いもできれば避けたいし、好きな人とだけ接していたいし、正直、猫だけいればいいと思ってる。
そうは言っても、それじゃこの社会では生きていけないから、できる範囲でやってこうして生きてる。
となると、なんなんだろうね、やっぱりプロっぽくない。
やってる仕事はプロかもしんないけど、どうもわたしはプロっぽくない。
そんな意味で素人的であるほうがいい。過去の事例に縛られないし、だから人の真似もしないし、業界からは、
「うまくなった」
なんて言われないほうがいいし、むしろ、
「なんなの、アイツ!」
と、憎まれるくらいがちょうどいい。
って、別に憎まれちゃいないけどね、多分。
わたしとしてはそうやって生きてるほうが楽だし、楽しいんだよ。だって束縛がないからね。あるとすれば自分がやりたいから始めたことへの責任。これはサラリーマンにはない重圧だと思うよ。