結月でございます。
昨日は4歳の愛娘を保育園に送り、そしてそのまま電車に乗り換え東京・蒲田に直行。
東京までは2時間半ほどで赤羽で乗り換えるだけ、しかし往復となると5時間超となり、一日掛となる。
蒲田に着いて要件を済ませ、栃木に電車が着いたのは夕方で、駅に駐車してあった愛車を保育園まで飛ばす。
まだ確定的でない企画を祈りながら進める。祈りながらというのは自分でできること、一緒に仕事をしてくれる人が最大限にやってくれて、そうするとあとは祈るくらいしかなくなる。でも、この祈りという魂が大事なのだとわたしは思う。
先に祈るのではなく、やれるところまでやってあとは祈るだけになるまでやってから祈る。
祈るというのは尽くしてからやるものだ。何もしていないくせに祈るなんて怠慢以前に嘘つきだ。
世の中はコロナで騒いでいる。一方で対策を上手にやって騒がずに済むようになった国々もある。
残念ながら日本は騒ぎっぱなしの一年以上の国で、でも国外に行けるわけもなくしょーがない。
しかし、「禍を転じて福となす」という考え方もある。
大変で、どうにもならなくて、鬱憤が溜まって、クソッたれ!と思うことは多々あれど、不貞腐れているよりも忍耐しながら虎視眈々と来るものがあれば容赦なく行け!なんてことはあって、グズグズ言ってる暇があれば飛びついて噛みつけ! それで逃げられたら仕方がない。そういうことだってある。
でも、その瞬発力で勝負をかけてみるとどうなるかはわからない。結果というのは、いい結果も悪い結果もいずれにしてもやってみなければ出るものじゃない。何もしないで結果ばかりを気にするのは取り越し苦労と言って、それは一番愚かなんだ。
どんなに禍であろうとも、針の穴くらいはあるはずだ。
新約聖書の「マタイによる福音書」には、
「富んでいるものが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通るほうがもっとやさしい」
とある。
私たちはラクダだ。ラクダが針の穴を通り抜けるなんてできるはずがない。無理に決まっている。それよりも富んでいるもの(施しをしないもの)が神の国に入るよりはラクダが針の穴を通るほうが容易い。
いくら禍の真っ只中であっても、富んでいるものが神の国に入れる可能性よりはラクダが針の穴に通るほうが可能性があるというじゃないか。
針ほどではあっても穴はある。そこに勝負をかける。
事象というのは絶えず変化している。今は最悪だと思っても少しずつ変化しているし、今がハッピーだと思っていても少しずつ変化している。
コロナは確かに人類的にも厄介なやつで、ウザいやつかもしれない。
本当に禍ばかりを持ち運んでくる。
しかし、禍だって転じて福となるときもなくはない。禍が大きければ大きいほど、その福は巨大なものになる。
だから悲観しちゃいけない。
ラクダの身でありながら、針の穴を通るつもりでいよう。
可能性とは本当のゼロになってから諦めるものだ。まだゼロになっていないなら可能性は残っている。風前の灯火だって焚き付ければ大きな火になる。
コロナを嘆かず、コロナを生かせ!
さて、急遽東京に行かなけれならなかったその日は2時間ほどしか寝ていなくて、そのまま電車で東京に向かい、東京から帰ってきたら睡眠不足で頭が痛くてふらふら。それでも4歳児にバイオリンを叩き込み、ひらがなの書き取りを教え、絵本を呼んでようやく寝かせた。
寝不足は辛い。わたしは何も食べないことは平気で、1週間絶食をしつつも、普段通り仕事をこなしたことをYouTubeでやってみて、絶食はできることを実証した。
しかし、睡眠だけは駄目。寝ないと何もできない。朦朧として何も手が付かない。
と、禁断の入眠剤をラムネのように飲み、猫と一緒に睡眠に入った。
それなのに朝は中途半端な時間に起こされ、今日は丸一日眠い、これはよろしくない。
しかし、やりたい企画のことで頭がいっぱいなら、興奮して眠れない。朝方近くになっても眠たくならない。頭ばかりが冴えてしまって、興奮状態。
でも、この状態は苦しいけど快感でもある。なぜなら躍動しているから。
この感覚はなろうと思ってなるものじゃない。
だからそんな狂気が訪れた時は食べなくても寝なくても押し通す。
眠たくならないほどやりたいことに興奮できている。こんな素敵な精神状態は数年に一度あるかないかだから。
あとは残されたやることを祈りながらやるよ。だって祈るしかねーだろよ。