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興味の幅と深度

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結月です。

先日は池袋へ。池袋は随分前、毎日乗り換えていたし、よく飲んだ場所でもあるから愛着がある。

東京では、池袋、渋谷、そして銀座がわたしにとって思い入れが深い。

栃木にいる身が2年を過ぎて、それでも東京の繁華街を歩くと心地いい。自分にフィットするこの感覚。心の波長が高まるというか、この2年が田舎暮らしで低いだけなのか、ともかく東京モードになると自分らしさを感じる。

それを感じてしまうと、

「何やってんだろ、あたし…」

と、栃木にいる自分が嫌になったりして、やっぱり都会人は都会人なのである。東京が自分に合う。

もう何もかも捨てて、東京に戻ろうかとちょっと本気で思ったりするも、栃木に戻ると4歳の愛娘が抱きついてきたりして、

「まあ、しゃーないわ」

と、これはこれでいいじゃないかと考えを反転させる。

さて、池袋のジュンク堂へ行き、本を買う。電子書籍派のわたしもたくさんの本があり、在庫が充実している書店を歩くと紙の本の良さを思う昔ながらの自分が込み上がってくる。

専門書を眺めていると、知的な好奇心が刺激される。こういう環境があるから、東京がいいなと思う。東京にいれば毎日刺激されるから意識も向上する。

そんなジュンク堂で大学受験の過去問題集「赤本」で真っ赤になった棚があったので、ふと自分の出身大学を手に取った。

過去問題を見てみると、

「これ、今のわたしが受験したら絶対合格しない…」

と、受験時の自分のほうが頭良かったんじゃね?という事実にぶん殴られる。

こんな難しい問題を解いていた自分がいたなんて信じられない。大学卒業してどんだけアタシはアホになったんや。

学生時代の自分は若くて愚かだった。だけど、学力はあったってこと。

社会人になって経験はたくさん積んで、若い頃にはわからなかったこともわかるようになった。哲学書だって、今のほうがはるかに理解力がある。

そう考えればそんな悲観するものでもないにせよ、とは言え試験問題を見てビビった。

あと大学受験の現代文の問題集を見て、これまたビビった。本文を読む気力が起こらなかった。

きっとそれは自分が興味がない文章だからで、しかもスマホでなく紙に印刷されているし、読む集中力が湧かない。

受験の時はそのあたりが柔軟で、読めと言われたら読んでいたわけだ。

思えば昔と今では興味の幅と深度が変わった。

受験するくらい若い時は興味の幅は広かったけれど深度は浅かった。そして今は興味の幅は狭いけれど深度が深くなった。

今は興味がないものは徹底的に興味がなく、興味がないものにはかなり冷酷。しかし、興味があるものには深く掘り込む集中力がある。

言ってみれば興味の対象が少なくなったわけで、それは歳を重ねることで経験が増えているから「処理済み」の割合が高くなり、興味の数が減っているからだろう。

しかし、昔なら興味を抱かなかったことも今だから興味を持てているものもある。山登りなんかその典型で、この体力レベル「クズ」のわたしが山登りなんかを楽しみにしているなんて、大学受験時のわたしが見たら幻滅するに違いない。

幸いわたしは興味の数は少なくなっても尽きることはない。だからそれを深掘りすることで生きがいが尽きることがない。

もし、歳を重ねて興味がなくなって、特にやりたいこともなくなったら、人間はおそらく自分にときめかなくなってほのかな絶望を感じるに違いない。

なんとなくの絶望。

そうなると、残りの人生をただ漠然と消化するだけになってしまう。事実、そういう人は多いのではないか。

経済学の茹でガエル理論のように、すぐには死にはしなくともだらだらと死に近づいて気づいた時には何もできないという結末。

おそらく人間には自分が引き締める手綱のようなものがどこかにあって、若い頃は比較的それを無意識に握りしめている。ところが歳を重ねるにつれ、それを掴む握力が弱まってくるのだろう。

そして、手放してしまえば好奇心もなく、興味もなく、気の抜けた人間になってしまう。

気の抜けた人間になると、自分が興味を抱かないだけでなく、他者からも興味を持ってもらえない人間になる。そうすると孤独になる。

死ぬまでやることがあるはずで、要するに生きている限りはやることは誰しもあるはずなのである。

そこに執着して生きること。

そうでないとつまらない、生きていて。

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