結月です。
ふと、思ったのは、プロデューサーは演者よりも狂気でなければならないってこと。「でなければならない」と言っても、なろうと思ってなれるものじゃない。狂気なるものは演じるものではなく、どこを切り取っても頭がおかしい、そんなものだから。
演者よりも狂気であるから、演者はビビる。演者もそんな狂気になってみたいと興奮する。一線を超えてみたい、どこまで爆発できるかやってみたくなる。
もしプロデューサーが普段の演者よりもエネルギーが低ければ、当然「ものすごい」ものなんてできやしない。こなすだけで終わってしまう。
だから演者というのも相当変わり者で、頭がおかしいものだが、それ以上にプロデュースは異常でなきゃおもしろくない。
さて、ちょっと今、わたしはそんな狂気状態にあって、クレイジーであって、頭がホットなのである。
できるかできないか、できない比率が圧倒的に高いものを考え、同時に現実に対しては客観的で、そんなアンビバレントに脳みそが分割されている。
ギリギリまでできるかどうか可能性を見出し、交渉をし、もうこれ以上は無理という限界まで考えてみて、やってみて、それでも不可能だと客観的な現実が見えれば潔く諦める。
できないものはできない。それを認めることも大事であり、でもやはり限界まで考えてやってみた結果でないといけない。
狂気であればそのスレスレのところまでやれる。だから狂気でないと前には進めない。
現実というものは実につまらないもので、ほんの小さな現実でもそれが障害となれば企画は頓挫してしまったりする。
それくらい現実というのはつまらないものなのである。
でもそれをなんとか傍に寄せてみたり、叩いて蹴飛ばして粉々にしてみたり、現実に対して手当たり次第に挑んでみる。
そして、ひとつの現実をやっつけたら、また別の現実が現れるものなのである。そうやって少しずつ血だらけになりながら前に進む。
それくらい現実とは手強いもので、それに出会わずに理想のまますんなりと進むことなんてありはしない。
どうにかできないものかと頭を非常識なモードの切り替えて考える。常識なんかじゃ、現実は突破できないから。
今、わたしがやろうと考えているものはやっぱりできないかもしれない。できない確率の方が高い。
でも、こうやって狂気でいる自分が一方では楽しくある。もしできなくともできなかったことが後悔にならないまではやってみる。
それをやらないで諦めてしまうと後悔になるから。
ともかくプロデュースとはそういうものだと思う。
演者よりもクレイジーで、そんな狂気を楽しんでいる自分があって、同時に自分が考えたことを進めた結果が大失敗になる恐怖もあって正直怖かったりもする。怖いのにやりたいと思う。だから狂気なんだ。
怖い、怖い、怖い。本当に怖い。
それだけ怖くても呆気なく実現不可になるかもしれないし、実現が決まってもその成果が出るまでは何十倍もの重力がある大地を息絶え絶えに足取り重く進む、そんなもの。
簡単な話などあるものか。
プロデュースとはそういうもの。