結月でございます。
今日は久しぶりにN響のマロさんと電話で話した。本当に久しぶりだったものだからマロさんから、
「元気そうでよかった〜」
なんて言われたのだけれど、「元気そうでよかった」という言葉はいい言葉だなって思った。
挨拶というか、そういう意味ではそんなに珍しい言葉ではないけれど、でも「元気そうでよかった」と言われればちょっと嬉しかったりするもので、いい言葉なのである。
わたし自身は久しぶりに会った相手にもそのボキャブラリーがなくて、おそらく一度も使ったことがない。
きっと元気そうでよかったと感じてはいるものの、言語化する脳ミソがわたしにはなくて、それと同様な意味のことを別の言葉で言っているかもしれないし、言ってないかもしれず、多分言ってない。
感じていることを言葉にして相手に伝えるって大事で、多分わたしはそこができてなくて、久しぶりに会った人にも普通に図々しいのだろう。
よそよそしくないという意味では図々しくていいと思いつつ、もしかしてわたしの頭の中では時間が止まっていて、久しぶりという時間を換算しないで久しぶりに会ったり、久しぶりに話しているのかもしれない。
とまあ、わたしにないボキャブラリーの「元気そうでよかった」というのはいい言葉で、そう声かけられるとささやかな感動がある。
思えば、頻繁に会っている人は多いようで少ない。
会社に勤めていると毎日同じ顔に会って仕事する。家族なんかは基本的に毎日うんざりするその顔を見合っている。あと学校。
やはり毎日だと嫌になってくるもので、多くとも週に二、三度程度が許容範囲ではないか。
ともかく、頻繁に会う人は仕事や家族くらいなもので、それほど多い種類のものでない。
そんな関係を差し引くと、人とはそれほど頻繁に会わぬもので、友達といっても月に何度も会わないし、簡単に数年会ってない状況になる。
会いはしなくとも、
「あいつ、どうしてるかな…」
だとか、
「あの子、今どうしてるんだろう…?」
なんて心の中では時折思い出して気にかけたりする。
今はSNSがあって、まめに投稿する人であればタイムラインに近況が流れて知ることができるけれど、SNSをやっていなかったり、アカウントがあっても投稿をしない人もいるわけで、今どうしているかよくわからない知り合いも少なくない。
ひょんなことから、久しく連絡を取ってない相手と話したくなることがある。でも、用事がなければなかなか電話するものでもないし、わたしは比較的「用なき電話」をするほうであるが、用もなく電話しても話題がない場合もある。
用がなくて電話しても、用がないから、つまり共通の話題がなく、電話しても話すことがなかったりする。
そうなると、なんだろう、もうその人間関係はすでに過去のものになって、すなわち要らないものになってしまっているのだろうか?
それも寂しいと言えば寂しい。
そう言えば、去年の暮れだったか、6年ぶりくらいに同じ歳の従兄弟に電話した。別に用事はなく、
「どないしてんのん?」
という程度のもので、ちょっとクルマの話なんかをして、近況を少し話しただけで、多分5分くらいの通話。
まあなんてことはない。だって用事がないんだから。
でも、久しぶりにつながったなって感触はあって、一度電話で話しておくとあと6年話さなくても6年ぶりで済む。もし電話していなかったら12年ぶりになる。
そう考えると「用なき電話」とは関係の更新手続きみたいなもので、それをしておくととりあえずは関係が途切れることはない。
リアルな声は聞けない弱さはあっても、今ならLINEもその効果はある。
少なくとも関係がなくなってしまわないほうがいいと考える相手には用事がなくともちょっと間が空きすぎると電話くらいするのがいい。
そういう相手が数多くあるほうが人間は幸せなのではないか。
やはりずっと放置は良くない。
用がなくとも、
「元気そうでよかった」
と声をかけるだけでも随分違う。
さて、今日マロさんと久しぶりに話したのは用がなくて電話したのではなく、用があったから電話した。
そう思うと、用があるっていいことだよね。用なき電話よりは意味があるし、未来につながるかもしれないから。
というわけで、わたしも「元気そうでよかった」というボキャブラリーを採用して、これから使っていこう。
でもさ、久しぶりに電話して、相手が全然元気でなくて、人生のどん底だったり、鬱病だったり、いきなり金貸してくれとか言われたら困るよね。電話しなきゃよかったと思っちゃう。
だから、他人のためにも自分が元気であったほうがよろしい。元気そうでよかったと声をかけられるようにしておく。
そもそも自分が元気じゃないと、用あり電話も用なき電話もかけられないものね。