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おぼろげに考えたこと

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結月です。

今日、ひとりで聴いた音楽。

マーラー:交響曲第9番

今日、4歳の愛娘と聴いた音楽。

ベルリオーズ:幻想交響曲

ブラームス:交響曲第1番

シューマン:交響曲第1番

音楽というのは今の社会に、今の世界につながっていなきゃいけないんじゃないか、と思う今日この頃なんていう死語。

今、この現在時に社会が無意識に求めている、社会に嵌まり込むようなもの、社会に不足しているものが絶えずあって、そこに音楽を当て込んでいく、音楽が代弁する、何かそういう合致がないとコンサートなんてただの発表会になるし、音楽家の自己満だったり、とりあえず開催しないと存在意義が見出せないオーケストラみたいになるんじゃないか、という考察。

そういうところは歌謡曲のプロデュースのほうが実にしっかりしている。ただ、クラシックは過去に、それも大昔に作曲されたレパートリーしか使えない都合、最新の社会に合致させることがちょっとやりにくい。

ただ、社会性のない音楽はシカトされやすくて、古今東西の音楽が大量にネットにアーカイブ化された今は純粋に音楽を楽しむためだけにはコンサートホールに足を運ぶ気分になりにくい。

コンサート開催の動機づけがしっかりされてないと、ただ聞くだけの退屈な音楽。

なぜ今、その曲をやらなければならないのかという根拠と主張が求められる。

さて、今日は商工会議所に赴く。

なんて、どーでもいい話。

でも、商工会議所の人はすごくしっかりとしていて、ちゃんとしていて、わたしなんかだらしないなって自分で思っちゃう格差がありつつ、それは仕事の内容が感性的なものかそうでないかの差なんだよね。

確かに商工会議所が感性的にやられたら手続きに困るわけで、逆に音楽や着物に感性がないと仕事にならない。

とは言え、ずっと自分の会社として仕事をしてきたから、感性的ないい加減さでは駄目、駄目なことを学び、こう見えてもちゃんとやるところはちゃんとやるようになったのは、つまり事務的なことなど感性的でないことをちゃんと考えるようになったことが大きな武器だと思う。

芸術ばかりやるとそのあたりが抜け落ちてしまい、金の勘定ができなかったり、合理的な説明ができなかったりして、社会から脱落するから。

と、それは東浩紀さんの『ゲンロン戦記』と同じで、哲学ばかりやっていて、経営では当たり前のことができてなかった告白。そんな告白にわたしも過去の経験を照らし合わせ、

「だよね」

って共感する。

ところで着物を着て遊ぶには大変いい季節になったというのに、まん防の世の中で、そんな気分になりやしない。

でも、「まん防」ってなんやねん、そのネーミング、その短縮形。貞操帯っていう意味?

それはいいとして、着物っていうのは何がいいか、どうして女の魅力が引き立つか、わたしはその最大の理由を知っている。それは秘密にしているのは、ちょっとエロいというか、きっと理解されないことを知っているから。

ちなみにこの魅力がどこから湧き出ているかという答えは着付けをしないとわからない。だから着物販売だけしている業者なんかわかりっこないし、着物を染める職人だってわかりやしない。そして、女同士で着付けても感知されない。

ものすごく肉体的なものであるから、これはレズ的な、レズ文化がないとわからない。

着物そのものが美しいだけではただ美しいだけであり、それはどんな見事な京友禅であろうともおもしろくもなんともないものなのである。女の肉体がなければ、ただのきれいな絵が描かれた布でしかない。

女の着物の何がいいか、その答えは当然、女の肉体にある。

その肉体と調和する着物がいい着物であって、昨今のインクジェット振袖がなぜ俗悪か、着物と呼べる品物でないかは、そもそも調和がないところにある。

そう言えば、先日、4歳児と連れて宇都宮の書店に行ったら、栃木県の歴史や名所、日光の研究など超絶マニアックな本があるコーナーがあって、今度一人で買いに行こうと思う。小さな子供がいるとゆっくりと立ち読みで吟味もできない。

地元の郷土研究家が書いたものかわからないが、特に日光の歴史に関しては興味があるので読んでみたい。その歴史は男体山を開山した勝道上人にまで遡るとなると奈良時代である。

とは言え、それほど資料がたくさんあるわけではない。

しかし、『日光山縁起』は一体、誰が書いたのだろう?

さて、シン・エヴァンゲリオンを観に行こうと思いつつ、まだ行ってない。来週には行こう。

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