結月でございます。
ものすごく雑な言い方をすると、人間の行為はふたつに分けられる。人間は様々だからたった二通りに分けることなんてできやしないのがわかっているから雑な言い方。
まず第一には、行為が何かの目的のためにあること。そして第二はその行為に明確な目的はなく、何やら特定のしようのない衝動でやりたいと思うもの。
前者は金を目的にして何かをやるだとか、給料をもらえないと生活できないからどこかの会社に雇われて仕事をする、あとは決まった時間があるから遅刻しないように朝起きて、間に合う時刻の電車に乗るなどもそうだろう。
後者は趣味などに見られて、山登りなどその典型で、
「どうして山なんかに登るのか?」
と訊かれて、
「そこに山があるからだ」
と答える問答がある通りで、山は山に登る行為そのものには目的なんかなく、よくわからないけど登りたいから登る。とてもハードなのに登りたいから登る。具体的に何か得る目的じゃない。
今は利便性や功利的な時代なので、無駄なく成果を出し、利益を上げ、合理的に物事を進めるのがトレンド。
そんなトレンドからすると、山登りなんて一番愚かで、意味もなく、馬鹿がやることになる。
しかしながら、目的のために行為している人はどことなく慌ただしくて落ち着きがなく、ゆったりと満足しているようには見えない。
承認欲求というのもその部類で、他人から承認されようと躍起になっていると何やらピリピリして見えるし、実質が伴わないものを追いかけているようで、どうも薄っぺらな気がする。
つまり、行為には明確な目的があるわけではないが、とにかくやってみたいという衝動でやったもののほうが人の奥行きを深めるらしく、満足を得られるようなのである。
それが金になったわけでもないし、不特定多数に認められたというわけでもなく、自分としてはそれをやり切ったから自分としては最大限の満足が得られて、そのことによって以前の自分と比較して大きく変わったなと実感できる、そういうものがあったほうがいいように思う。
ところが目的主義で生きてしまうと、そういう充実の存在に気づかず、目先のものに追いやられてしまう。
いや、そういう合理的で、クールな考え方も一方では必要で、それがないとつまらないものに騙されるし、やらなくていいことに知らずと時間をかけてしまっていたりするから、それが駄目というわけでない。
要はバランスなのであって、半分半分ではよくなく、7:3くらいで山登り的なものが多いほうがいいように思う。
3程度は合理的な思考がないと、それこそ山で遭難するし、考えなきゃいけないことは考えなきゃいけないから。
思えば、育児も目的がないものだ。
無論、子供がこうあってほしいという漠然としたヴィジョンはある。そういう方向性がないと放置になってしまって、何もできない人間に育ってしまう。
しかし、親が子供の将来的な方向性を決めて、がんじがらめにすると子供は成長しない。
親が医者だから子供も医者にしようと無理矢理医学部受験をさせて、その反発から子供に殺される親の話もある。
思いのほか、親が事細かく子供に要求しすぎると、子供はうまく育たないらしい。
ともかく、育児は目的のためにやるものではない。そこにある人間的存在があるから、まだひとりでは生きていけないから自然的な成長に寄り添うようにヘルプする。
そして、子供が巣立ったら何か恩恵があるわけもなく、自分としてはやれることはやったなというなんとなくの達成感があるのだろう。
それをやったから自分が満足できている。その行為によって自分が新たな自分に生まれ変わっている。それがあると意外と人間はハッピーに生きていける。
どこかでそういう行為が必要であって、もちろんそれだけではこの物質社会は生きていけないのだけれど、そんな行為が人を豊かにする。
人に見せて評価を得るために絵を描くのではなく、描きたいから描く絵があって、とにかく描き続ける。その絵は完成後も誰も見ないかもしれない。でもそれでいい。そんなことを求めちゃいないし、描きたいから描いただけだから。
でも、その人はその絵を描いたことによって得ているものがある。金のように勘定できるものじゃない。特定しようがなく、非合理的で、無意識につながっているものかもしれないけれど、精神に何か得ている。
目的がない衝動の迫力。
そんなものが人間にはあったほうがいい。
でも、それも才能なのかもしれない。そんなものを持てと言われても持てるものじゃない。温泉は温泉が通った土地を掘らないと出てこないのであって、その原泉がないところをいくら掘っても何も出てこない。
そんな原泉が稀有なものだからこそ、金を目的にしたり、家を買うことを目的にしたり、結婚することを目的にしたりする。
しかし、金は得てもなくなるし、家は買えば古くなり、結婚しても独り身を思い返す。
誰に見せるわけもなく描きたいから絵を描いて後悔はない。登りたい山に登って悔いることはない。
それをやり切ったから自分は満足しているんだ、そしてその満足がずっと続く。何年経っても何十年経っても、死ぬ直前になってもやってよかったという満足が持続する。
おそらく、そういうものが幸せというものじゃないか。