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コンサートチケットが売れない理由は演奏者にもある

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結月でございます。

苦労というものを賛美するのは日本的なのかアジア的なのかよくわからない。けれど、苦労して、「よく頑張った!」なんていう光景はとにかくよく見られる。

わたしは苦労はしたくないので、できるだけ苦労をしなくて済む選択をして生きている。

それはひとつのきっかけがあって、大昔、渋谷の百貨店の地下青果売り場で肉体労働をしていたときの経験で、その仕事は朝が早く7時に渋谷出勤で、1ヶ月に休みが1日もなく、連続勤続数が元旦を抜いた364日を超えていた。

重い荷物を1日に何度も台車に乗せて往復し、野菜を袋詰めしてラベルを貼って、それを店頭に並べる。そしてたちまち溜まってしまうゴミの段ボールを自分の背丈よりも高く台車に積んでゴミ捨て場まで運ぶ。

よくあんなに台車に積んで、人混み状態の地下食品売り場を事故なく何度も台車を引いたものだと思う。おそらく今では安全性などうるさいから、そんなことは禁止だろう。

ともかく休みが一日たりともないから、月給はそれなりにはなっていた。しかし、家に帰ると身体中が毎日筋肉痛で、脚はガクガク。渋谷駅の埼京線ホームまで歩くのも辛い。

料理なんてする体力は残っていないから、池袋の東武百貨店で惣菜を買ったり、ワインを買ったりして食べながらお酒飲んでおしまい。よく箸を持ったまま、畳の上に寝てしまっていた。

好きな本も読む気力も時間もなく、バタンキューで眠ってしまって、目覚めると次の日の朝5時半だった。

有楽町線はまだ混んでない時間。池袋から渋谷まで山手線は少々混んでいる程度。

とにかく、そんな毎日で本も読めないし、やって楽しい仕事でないし、言ってみれば家賃を払うために生きていたようなものだった。

当時はやりたいことはなくはなかったけれど、実質はなかったと言っていい。

それはまさしく無駄な苦労だけの毎日だった。

そして、なんだかんだと人生最悪期のどん底にまで堕ちて、青果売り場を自然退職し、思い出したくもない絶望の真っ暗闇の中にいて、このままだと死ぬか家賃を払えぬかの二択に迫られて、コンビニで求人雑誌を朦朧としながら買い、そこに弦楽器業界の求人があって面接をしたらすぐに採用された。

着る服は小汚いし、人相は絶望しているし、疫病神みたいな顔をしたわたしをよく採用してくれたと思う。すぐに採用してくれた会社の会長は強欲ワンマンでえげつない人だったのは後でわかったが、わたしは今でも会長に感謝していて、会長のことを悪く言う人が大半だったけれど、とにかく感謝している。

野菜売り場から弦楽器業界という世界が違いすぎるところに身を移して驚いた。こんなにゆったりとジタバタせずに過ごせる仕事がこの世にあったんだと。

社会の底辺のどん底にいるとそんなことも知らずにいたわけで、一個98円のキャベツを汗だくになりながら山積みしていたのが馬鹿らしく思えたのは、弦楽器はあんなに暇をしていて300万円の売り上げがそのバイオリン一本で立ってしまうからだった。

肉体的な苦労は微塵たりともなかった。野菜売り場は何の実もない苦労しかないことを知った。

箸を持って寝てしまうほど肉体が疲労していることで「頑張ってる」なんて言われても嬉しくもない。

疲れすぎて、「自分」という固有の時間を生きていない。

そういう苦労は二度としないようにしようと自分に誓った。

弦楽器業界に入って、コンサートの企画を立てて会長に持ち込んだりもした。それは叶わなかったけれど、当時の会社では初めての提案だったし、今ではそういうことが普通にやられていることを見ると、種を植えたのはわたしだと勝手に自負している。

ともかく、弦楽器に携わるようになって自分ならではでできることを思いつくようになり、独立してから数年後、川崎の総合病院からの依頼で初めてコンサートをプロデュースした。

ロビーでのコンサートだったけれど、入院中の患者さん、それから周囲に済む住民たちには楽しんでもらえ、「いいことしたな」と自分で思えた。

そのコンサートは当時、新日本フィルの契約団員としてファーストバイオリンを弾いていた佐久間聡一くんにお願いした。彼はまだ桐朋の学生だった。

最初に彼の音を聞いたとき、この男は出世するなと直感し、唾をつけておかねばと思った。

川崎の病院でコンサートしてからは、佐久間くんでたくさんコンサートをやった。

直感は正しくて、桐朋卒業後に大フィルのセカンド首席に抜擢され、今では広島交響楽団のコンサートマスターにまでなった。

そんなコンサートを重ね、N響のマロさんと再会し、王子ホールでブラームスのリサイタルをやり、ついにサントリーホールでマロオケ東京初公演をやった。そして、その2年後には船橋市民ホールからの依頼で再びマロオケができた。

サントリーホールでのコンサートは壮大な成功だったと思う。演奏者たちだってそう感じているはずだ。

そんな成功は野菜売り場の苦労では生まれやしない。いくら苦労しても苦労だけで終わってしまい、自分を消耗するだけで何も残らないし、何も生み出せやしない。

成功を生み出す最初の種は紛れもなく、会社員として弦楽器業界にいた時の実現はしなかったコンサート企画だった。今だから言ってしまうと、それはバイオリンの巨匠イヴリー・ギトリスの協賛企画だった。

そんなギトリスは昨年のクリスマスに98歳で亡くなった。

コンサートの度に集客では大変な思いをした。チケットはそう簡単に売れるものじゃない。どんなに小さな会場でも楽にコンサートができたことなど一度もなかった。特にサントリーホールはキャパが2000席ほどあり、しかも後援団体もないのだから、ゼロからのスタートで神経衰弱するほど集客には苦労した。

しかし、その苦労は渋谷の野菜売り場の苦労とはまったく異なったものだった。何の成果も生み出さない肉体労働と違って、コンサートのチケット販売は一生懸命にやればやるほど成果につながる可能性があるものだった。

とはいえ、成果につながらないかもしれない。やるだけやってもチケットは売れない。そういうものでもある。しかし、それは自分がやりたくて始めたもので、時給で働かされているものとは違う。空席の精神的ダメージは辛いものがあるけれど、自分で可能性に挑戦できる。

もちろんそれは大損害と裏表であって、恐怖を伴う。でも、野菜売り場の苦労のように無意味ではない。

おそらくそれは苦労とは呼ばないのだろう。もっと別の何か。

苦労はしていいのかもしれない。しかし、それがはっきりと今後につながるものでないと駄目だ。

しかしながら、大きなコンサートをやって、わたしはビビリ体質になった。コンサートホールにチケットを買って足を運んでもらうこと、そしてそれを満席にすることの大変さにビビってしまい、正直、もうあの苦労はやりたくないと思っている自分がある。

コロナがなくともすでにコンサートは、

「チケットを売ることのほうが演奏するよりはるかに困難になっている」

のである。

演奏も簡単じゃない。曲に対しての研究を深め、それを音にしていかなければならない。楽なことじゃない。

しかし、今はそれよりもチケットを売るほうが困難度が高い。それは演奏家が多すぎるのと、それに伴ってコンサートの数が飽和状態を越してしまっていることもある。各々の演奏家がコンサートを乱発しすぎている。

そこに動画配信まで安直に加えるのだから、そうなると演奏そのものを実現するよりもお客さんに来てもらうほうが難易度が当然高くなる。

ちょっと演奏をしすぎなんじゃないかと思う。もっとレアでなければならない。

そこは演奏者全体が真剣に考えたほうがいいテーマに違いない。

もう主催者に任せて自分は演奏だけするような時代でない。構造的にそれは成り立たない。

要するに演奏会を間引かなければならないのだ。

自分たちがいくら音楽を愛していても、その愛を安売りしすぎると愛を受け取る人がいなくなる。

そういう構造が見えてしまうから、さあコンサートをやるぞ!とはなかなか気持ちが乗らない。そんな中で無理にコンサートをしてしまうと、集客という仕事が野菜売り場での苦労に似たものになってしまう。

演奏の動画配信を皆がするようになって、演奏の価値はますます下がるのは間違いない。演奏者は自分の音楽を届けたいという思いで、自分たちの演奏を100円ショップ化させている。

ましてやSNSの登場で演奏家が憧れの存在ではなくなり、身近になりすぎた。身近なものには高い金を払おうという気分にはならない。

そんな状態を作ってしまったのでは、いくら主催者が頑張ってもチケットは売れない。それでいて演奏のギャラはもらうとなれば、主催者は割りに合わないと思えてくる。

好きな音楽の仕事が野菜売り場の苦労に近くなるのであれば、わたしはもうコンサートはやらないようにしようと思う。

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