結月でございます。
解放の月曜日。
土日は保育園が休みなため、二日連続で終日4歳児といなければならない。それは楽しいとはいえ、無限地獄のようなママゴトなどアダルトにはちょっと辛いし、食事もずいぶん楽になったとはいえ目を離すわけにもいかず、心労が蓄積。
先週の木曜は祝日だったし、今週は金曜日が保育園が休園らしく、さらに来週は天皇誕生日でまた祝日。
2月の3週は実質保育園が週に4日しかないわけで、ちょっとため息も出る。
とはいえ、ご飯を食べていると、甘えてわたしの膝の上に乗ってきたりして、
「こら〜 ご飯が食べられんやないかー」
と言いつつも、そんなことをしてくれるのは小さいうちだけだし、それはそれで可愛いものだと思う。
先週は祝日と昨日、サイゼリヤに赴き、定番のメニューで食事。そんな頻繁に行くわけでないが、サイゼリヤは4歳児のとってときめきの場なのである。
二人で食べてお会計はいつも1800円。それでもちょっと量が多いくらいで、次からは一品減らしていい。
と、そんなサイゼリヤだって2度行けば3600円で、
「う〜ん、これなら本でも買ったほうがいい気がする」
と、やはり外食は月に一度か二度でいい。
いやいや、4歳児がバイオリンの習いに行ったあとは宇都宮のお決まりのショッピングモールでご飯を食べる。それは月に二度だから、合計すればなかなかの出費であり、一人暮らしが気軽でよかったと過去にノスタルジー。
さて、本を買ったほうがいいと思いながら、本は買っている。もう今年に入ってひと月あまり、かなりたくさんの、しかも重量級の本を読んだ。
今日はジャン・ボードリヤールの『消費社会と神話の構造』をKindleで買い、読み始めている。
これは哲学書だけれど、かなりおもしろい。ポストモダンがどういうものかもよくわかる。そして、同じくボードリヤールの『シミュラークルとシミュレーション』も購入。
こちらはすでに絶版らしく、Amazonにも古本しかない。法政大学出版からなので、そもそも部数が少なかったのかもしれない。
しかし、よく探すとYahooショッピングで新品が1冊だけ残っていて、注文した。この手の哲学書は部数が少なくて値段が高いのが困るが、3000円強だったと思う。
しかもKindleでなくて、紙の本。もう紙の本は読みにくくてフィーリングに合わないから嫌なのだけれど、紙でしかないから仕方がない。でもこの本は読みたいから買った。
知的好奇心は興奮状態になって心地よく、読みたくてたまらないものはしっかりと身につく。そこはやらされたものと違った強みがあって、自分のレベルアップに直結する。
ちょうどコロナで仕事の身動きも取りにくいから、こういう時には仕込みをするに限る。
ボードリヤールを読むことが仕事に繋がるのか?と思われそうだけれど、それは思考力を強める意味だけでなく、ポストモダンの消費行動を理解すると、なぜ今の着物がこんなものになってしまったか、なぜ安物ばかりが流通するのか、なぜクラシック音楽には客が入らないのかなどなど、自分の仕事に関する客観的な分析ができる。
それを知った上で仕事をするのは大事なことであり、今まで「思い」で押し進めてきたけれど、特にコロナ後は「思い」では物事は進まないことがさらに顕著になるはず。
わたしにとって「思い」の強さでやれたのは2016年までで、これからは「思い」は必要条件でしかなく、もっと冷たい現実を踏まえた上で熱くやらねばならない。
そういう意味でもポストモダン、さらにはポストモダン以後を見据えておくことが重要で、だからこそ読んでおきたい本がたくさんある。そう思うと本代など安いもので、投資額としては大したことなくても得るものは大きい。
と、コロナで本当に社会が激変する。
だから、ボードリヤールでも古典になるわけで、それを踏み台にした「次」に行かなければならない。
コロナ後に加速するのは、いや実はすでに加速していたのだけれどコロナによってさらに爆速するのは、
「美の喪失」
これは間違いなく、美というものの価値がほぼなくなっていく。
コロナ以前はその傾向を感じながらも騙し騙しやってこれたけれど、コロナ後はそうはいかないだろう。
わたしはずっと美を商材にしてきた。音楽も着物も。
おそらくこれからは美に関するものはそのものだけでは存続できず、他ジャンルとの集合化でようやくその一翼を取れるかどうか、つまり美だけでは立つことも歩くこともできず、集合的なもののパーツになる。
これはどういうことかと言うと、例えば音楽は音楽だけでは存続できず、音楽を聞かせるだけのコンサートという形式は構造的に成り立たなくなるということ。
さらに音楽というジャンルがハイレベルの演奏を奏でようとも、それは興行的にはあまり意味をなさなくなる。要するに熟練した技能は直接の評価対象にはならず、すなわち金にならない。
音楽は一例にすぎず、こうしたことはどの分野でも起こる。
これは感受性のひとつの衰退、というか感受性の滅亡といえるかもしれない。しかし、「思い」とは別に急速に進行している。
じゃあ、これからどうすればいいか?
わたしもまだわからない。ちょっと漠然とは見えてきているけれど、まだわからない。
今はまだコロナのために先のことどころか、今、どうやり過ごすかが政府、社会、企業、そして個人が考えるところで、どうすればいいかを考える余裕がない。
しかし、コロナの落ち着きが体感できるようになったときが本当の混迷が始まるのであって、それがチャンスになるところもあれば、終焉になるところもある。
中国のように遅れてきたところは伸び代があっても、日本はすでに成熟して伸び代がない。
とにかく、ある人にはおもしろい時代がやってきて、ある人には絶望的な時代がやってくる。
美に執着する側にいると絶望するに違いなく、いかに執着なく美を生かせるか、ということだろうか。
しかし、恍惚となるような美は行き場を失うだろう。
それは美がなくなるのではなく、感受性が失われるせいで美は評価されず行き場がなくなるのである。