結月です。
「痛っ!」
と感じたのは、服を着替える際に乳首に自分の手の爪が当たって引っ掻いてしまったからという情けない事情で、ビーチクには切り傷が入っていた。
さらに体がだるくて、4歳児に絵本を読むのも息切れしているのは、持病の喘息が出て、機関紙拡張剤のスプレーを連続でしてしまったから。
「ん?スプレー、ちゃんと出てる?」
と、疑って連続して吸入してしまった。ちゃんと出ていたから過剰に薬物投入。これは結構、強い薬なので、規定以上に吸い込むとしばらく体がだるくなって過呼吸っぽくなる。
と、どーでもいい話をしてしまいつつ、ビーチクが下着に擦れてやや痛い。
さて、哲学というのは社会の構造を解明する役割があって、さらに人間の精神のあり方まで考えてしまうものだけれど、批判的な思考を繰り返しつつ、時代に適合した新たな哲学を生み出していくのは古代ギリシアから変っちゃいない。
と、そこで思ったのは、哲学は批判はするけれど、人間を解明しはするけれど、
「人間の魂を救済はしない」
ということ。
こうだ、とは言っても、こうすれば救われるよ、とまでは言わない。思えば、それは純文学も同じで、主人公は得てしてアンハッピーで、割り切れぬまま、言ってみれば結論はわからぬまま放置されて終わってしまう。
書くことで作者は何かしらの救済はあるのかもしれないけれど、読んだほうは何も救済されない。
哲学や純文学が売れるジャンルでなく、ニッチであり続けるのは読んでも救済されないからじゃないか。
自己啓発本がクソくだらなくても読まれているのは、それが嘘っぱちで、薄っぺらであったとしてもなんとなく「こうすればいいよ」ということが書かれていて、少なくとも読んだ人を救済しようという気持ちがあるからではないか。
それが占いまで来ると救済ではなく、詐欺に近くなるとは言え、占いの本は昔から売れる。
内容がディープで、よく考えられていて、必死に真理に近づこうとしている哲学や純文学は作者の自己満から外に出る力に乏しく、自己啓発本は内容は薄っぺらだけれど外への発信力には長けている。
と、哲学が好きなわたしは哲学がサービス精神に乏しいことはそれほど気にならないとはいえ、魂の救済の方向は示すべきなんじゃないかと思う。
魂の救済となると宗教がその役割を担ってきたわけで、神がいない21世紀は宗教的な役割を自己啓発本がしていると言ってよろしい。
さて、魂の救済はしていなくても、魂の育成はしているわたしは4歳児と共に過ごし、あとから考えて、
「あのときは、こう言っておけば良かったな… しくった…」
と、反省することが多々ある。
なにぶん、4歳児はまだ自分でやれることが少なく、それでいて自分でやることで覚えていく真っ只中にいて、それを大人の立場でどこまで介入するか、その匙加減は大変難しい。
反省するときは、もっと放任しておけばよかったと思うときであり、子供の成長を阻害したのではないかと後悔する。
要するにスルーすることが難しい。なぜなら、子供のミスは単純なミスであり、大人から見れば簡単なことでも幼児の成長過程では難解なチャレンジであったりして、その差異を瞬時に察してスルーするのが難しい。
とにかくやらせるようにはしているとはいえ、それはヤバいでしょ!というところにはヒヤヒヤして、どうしても介入してしまいたくなる。
未然に失敗を防ぐことは大人にとっては都合がよく、その後始末を回避できたと言えるわけだが、そんな事情を4歳児は理解できないのだからきっと何かを奪われた気持ちになるに違いない。
それでいて、雑で、精緻なことができない馬鹿に育つのも困るという思いもあって、その調整が難しい。なぜなら、精緻すぎてやらなくていいことも細かくやるようではそれも馬鹿ということになるからで、「ほどほど」がよろしい。
そんな毎日を過ごしながら、自分自身の魂を救済せにゃならん、と薄々気づいている。
救済が必要なほど荒れてはいないとはいえ、十分とも言えず、満足はしてないし、むしろ不満は多々あるし、自分自身の魂の健康度数はそれほど高くはない今日この頃という死語。
おまけに自分でビーチクまで傷つけているようじゃ、話にならん。
今がベストではないという自覚がありつつ、今がベストと言っちゃう時が一番怪しいとも思う。
と、「満足する豚より不満足なソクラテス」なんて言い訳をしてみる。