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うまい料理はうまい料理を食べなきゃできない。

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結月でございます。

料理が下手だとか苦手だっていうのは、きっと本当においしいものを幼少の頃に食べたことがないのでは、と思う。

料理人を目指すには、やっぱりいい料理、よくできた料理を食べなければならず、コンビニ弁当やインスタントばかり食べていては本物の味が体験できないから無論、料理人にはなれない。

料理人にならなくとも、人間は毎日外食、毎日コンビニ弁当、毎日インスタント食品というわけにいかず、だから最低限は調理しなければならないわけだけれど、いい食の経験がないと「何がおいしいものか?」がわからないから、料理したってとんでもないゲテモノができあがったりしてしまう。

小さい頃にいいものを食べたかは大変重要で、育ち盛りだし、敏感だし、だから幼少期に貧乏だったとか、親が超絶料理が下手だったとか、親がインスタントばかり食べさせていたとかとなると、味覚が育たない。

味覚が育っていないと、大人になってもおいしい料理が作れるはずもない。

わたしの祖父は戦争に行って、確か南方に赴いたけれど腕に弾丸を食らって負傷帰国した。そのおかげで死なずに済んだとも言える。

しかし、弾丸を食らうまでは行軍して、おそらくはジャングルを歩いていたわけで、その戦争体験は終戦しても色濃く残っていたのか、わたしが子供の頃、祖父のところに夏休みに訪れると、戦争はとっくの昔に終わっているというのに料理は飯盒(はんごう)で作っていた。

今のアウトドアに使われるような洒落たものでなく、軍隊仕様の典型的な飯盒だった。

そして祖母は戦時中は食うものがなく、母乳も出なかったらしいが、度重なる空襲でも生き延びた。

そんな祖父と祖母が作る料理はおそろしく不味いという記憶は残っていて、その娘、つまりわたしの母はそこそこ料理がうまかったのは花嫁修行で料理教室に通ったせいか、時代が裕福になったせいか、まあその両方だろうと思う。

ともかく、戦争などは典型的で、うまいもんが食べられない。うまいもんを食べる経験がないと飯盒で作った不味いカレーになったりするのは納得できる。

貧困も同様で、幼い頃に貧困だと貧困な食生活が染み込んでしまって大人になっても食べ方が貧しい。もちろん、それを脱する人もいるだろうけれど、ほとんどは三つ子の魂百まで。

貧困の中で育つと、料理を味わう余裕がなく、とにかく腹に入ればいいという性格になってしまうのか、時代が豊かになってもそれは変わらぬらしい。

料理は何が大事かというと、それは「愛情」だとわたしは思う。

技術はいまいちでも「愛情」、つまり人においしいものを食べさせたいという気持ちがあれば、極端にひどいものはできない。

おいしいものを作って食べさせたいという気持ちがないと、自分さえ食えればいいものになるし、作り方も雑になる。

だから、料理はうまい下手以前に「愛情」なのである。

ところが貧困で育つと食に対して「愛情」までたどり着かない。これが三つ子の魂のうちに培われないと、大人になってもおいしいものは作れない。それどころか、自分の貧しい味覚を客観的に見ることができず、クソ不味いものも不味いと思わず、平気で人に食べさせたりしてしまう。

不味いということすら気づくことができない。

それは戦争で赴いたジャングルでうまいものなど作ることができなかった旧日本軍兵士と同じなのである。

戦争が終わっても味覚はずっと南方のジャングルのままで、野戦感覚でカレーを作り、過激に不味いカレーができあがる。でも本人はその不味さに気づいちゃいない。

しかし、食というのは精神にも影響が強いらしく、味覚が雑だと性格も雑になるのではないか、と雑な仮説を持ちたくなる。

味覚にうるさすぎて、美味しんぼの海原雄山みたいなのも厄介だけれど、味覚が雑だと他者への想像力が働かないような気がして、だからこそ不味い料理、というか不味い物質ができあがってしまうのだろう。

そうなのである。「愛情」がない料理は料理でなく、エグい物質なのである。食えない代物なのである。

戦争、もしくは貧困でエグいものばかり食べていた感覚が自分だけのものであって、それが自分の世界であり、他者への想像力を生み出さない。だから自分の世界だけの料理のような物質ができあがって、他人が食えないこともわからない。

もはや暴力。得体の知れないような料理というか物質を食べろと差し出すのは暴力。そして、いじめに自覚がないようにその暴力には自覚がなく、相手も食べるものだと思っている。

自己への客観的な視点があれば、自分の料理がひどいことを認識できるのだけれど、この手の暴力はその自己認識がないから恐ろしい。

料理には「優しさ」がないといけない。

おいしいものを食べさせようという気持ちは優しさだし、自分に技術がなければ勉強することも優しさなのである。

そして、下手くそから上手になるプロセスも優しさがあってこそなのである。

さらに料理とは「文化」であるということ。

人類は長い歴史の中で「料理」という文化を生み出し、発展させながらそのままだと食えない肉や野菜をいかにしておいしく食べるかを探求してきた。

調理法とは人類の最大級の文化であり、だからこそ人間が文化的に生きるにはそうした文化が必要となる。

だから、料理に必要なものは「愛情」「優しさ」「文化」だろう。

そして、戦争と貧困はこの三つを求める余裕がない最たるものである。

だから、社会は平和であり、裕福であるほうがいい。

また、粗食であることと、味覚の欠落はまったく異なるもの。

安い食材でも味覚と文化があれば粗食でもおいしいものは作れる。しかし、味覚と文化がなければいくらいい食材をもってしてもそれをすべて台無しにするような食えない物質にしかならないのだから。

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