結月でございます。
某日。
東京の駒込で「富士そば」に入り、朝そばの食券をオヤジに渡し、椅子に座って待っていたところに、ジイ様がやってきて、
「いつものね」
と、食券を渡す。
そして、セルフの給水機でコップに満たした水と一気に飲むと、
「うめえ… ああ、うめえ…」
と、腹の底からそのうまさを絞り出すように言った。
蕎麦屋の水を飲んで、そんなにうまく感じるのはどういう生活をしているのだろう?と不思議な気持ちになったわたし。
真夏の酷暑で、喉カラカラでやってきて冷水を飲み干すと、
「うめえ…」
となるのはわかるけれど、秋の涼しさの中であの感動はよくわからない。
水道水だし、この日本でそれ以下の飲み物はないはずで、どんなに貧困だとしても水くらいは飲める。
さて、特に夏場は凍りをぎっしりと敷き詰めたグラスでハイボールを一気飲みすると、
「うめえ…ああ、うめえ…」
となるものだけれど、お盆明けからお酒をほとんど飲まなくなったという嘘みたいな生活を継続中のわたしはもうあのウイスキーソーダ割の感動的なうまさを味わえないのだろうかと思ったりする。
いやいや、そんなことを言っていてもまた来年、暑くなったらハイボール飲むんじゃね?と思いながらも、あれだけ飲んでいたお酒をほぼ飲まなくなり、ひと月に数度飲むくらいで、しかも飲んだあとは、
「飲まなきゃよかった…」
と、後悔してしまう。
それはどんな後悔かというと、アルコールを摂取したことにより、理性的な時間が減ってしまったという後悔。
お酒がない食事というのはつまらないものだと思っていたし、今もそう思ってはいるけれど、飲まなくなったら、
「ご飯なんて、どーでもいいや」
と、無関心状態になってしまった。
だから、今のわたしは食事を楽しくはしていない。ただの通過という感じ。
いやいや、もう随分前からそんな気分でいたわけで、「美味しい」に感動することに馬鹿らしさは感じていた。
とは言え、先週、御徒町結月亭の中国料理を食べたら、
「う〜ん、やっぱここの料理はうまいわ…」
なんて言いながら、調子に乗って飲みすぎて二日酔いしている。
でも、翌日からはまたちゃんとノンアル生活になっていて、カタギなわたし。
お酒を飲まないと何がいいかと言えば、体調がいいこと。肝臓という臓器は可逆的なものだから、アルコールを摂取しなければ肝臓は良くなっていく。
肝臓をリフレッシュさせたわたしはお酒を飲むことよりも、肝臓をきれいにしておくことにちょっとした喜びを覚えてしまって、お酒を口にすると、
「いやいや、いかん、いかん。せっかくずっと飲まずに仕上げた肝臓を傷つけちゃいかん」
などと自前の想像力で思いながら、肝臓だけでなくすべての臓器、さらにはこの肉体そのものをカタギにしておくことに快感を覚えている。
しかしながら、人と会食するのにノンアルコールにはできない未熟さがあり、
「飲まないで宴会とか、意味わかんね」
と思っている。
とは言え、世の中には居酒屋でジュースをオーダーして楽しそうに話す人もいて、
「おいおい、居酒屋は酒で売上げ立ててんだから、店のことも考えてやれよ!」
と。他者への想いが強いわたし。
思うにジュースで宴会を楽しめるタイプは、日頃から鬱屈を抱えていないに違いなく、能天気で、酒などなくてもフリートークできる正直さがあるのだろう。
わたしみたいな文学的な人間は、どうしても内向的で、小さな憂鬱が胸の中にあり、アルコールがないと楽しくなれない。
そもそも飲みに行っても、行きつけの店の売上げのことまで考えてしまって、飲み放題にしてもちょっと会計が寂しいなと思うと、対象外のワインをボトルで入れたりする小心者。
他人の店に飲みに行ってるのに、自分も銀座で店をしていた苦労がわかるから、相手の立場を考えちゃうわけ。だって、店をやるのって本当に大変なんだもん。従業員として給料もらってこき使われるより、自分でやるほうが何十倍も大変だから。
と、コロナ禍で飲食店が槍玉に挙げられていることにわたしは同情していて、贔屓にしていた店のことは東京を離れた今も気にかけている。
できれば顔を出して、少しは売上げに貢献してあげたい気持ちがありつつも、クルマで行くにはお酒が飲めないし、3歳の愛娘につきっきりである事情もあり、なかなか叶えられない。
店主にとってお客さんが来ないのは、もう死にたくなるほどのものだから、こんなときだからこそ、コロナでキャンセル続出の今、
「飲みに来たよ〜」
と、やってやりたい。
そういうわけで、会食のときはお世話になるお店のためにもドリンクはジュースでなく、お酒であるべきで、そういう優しさみたいなものがコロナの恐怖でズタボロにされているのがすごく気になる。
こんなときだからこそ、人間的な優しさがあったほうがよく、一口に自粛しろと言うのではなく、それぞれに苦境にある立場のことを考えるハートがほしい。
なんて、手前味噌ながら言えるのも、やはりわたしも銀座でずっとやってきた苦労があるから、感染があるから時短営業しろと言われたりする哀しさがよくわかる。
きっともっと上手にできる方法はあるに違いないけれど、それを見つけられたとしても社会はあまりにも複合的すぎて、実行できない。
でも、苦境にある飲食店で贔屓にしている店があるなら、ビール一杯だけでもいいからちょこっと訪れてやるとよく、それは店にとって心底から嬉しいものだから。
さて、話は最初に戻ると、富士そばで見た爺さんは、あれは仙人なのかもしれない。水でハイボールを飲んだが如くの境地になれるというのは、実はあらゆる贅沢を知り尽くして、最後は水だと達観したのかもしれない。
蕎麦屋の水であそこまで満足できる到達点と比べれば、わたしはまだまだ尻が青い。