結月でございます。
昨日は、3歳の愛娘のための七五三。結美堂スペシャルの京友禅の着物。
朝6時半に起床。そこからご飯を食べさせ、着付け。
とはいっても、3歳児の着付けは超絶簡単だから着付けというほどのものじゃない。
なんて言っても、それは着付けを仕事にしているからそう感じるのであって、着物に触れたことがない人だったら、それもどうしたらいいのか、そもそもやっていることが合っているかの自信が持てないからできないかもしれない。でも、金を払ってやるレベルのものじゃないとも思う。
それから近所の美容院に行って、メイクとセット。初めてのお化粧。
3歳ながら女の子だなと思わせる表情。
1時間弱で仕上がり、今度はそのまま写真館で撮影。
写真スタジオはわたしなりに選んだところ。というのは、貸衣装とセットにしてやっているところなど、写真がクソすぎて、まるでアニメキャラみたいなポーズをさせたりする勘違い撮影ばかりだから。
なので、写真館では、
「昨今の七五三写真はふざけ過ぎている。オーソドックスに。オーソドックスでよろしく」
と、告げる。
うちの愛娘の着物を一目見た写真館の女将は、
「あら、この着物はきれい!」
と言う。
そりゃそうよ。あたしが京都にオーダーして結月センスのもの図案を決めて染めたんだから。レンタルのペラペラの悪趣味なものなんかとまるで違うよ。
「正絹?」
「モチよ」
と、わたし。
そうなのである。今は正絹の着物を着ただけで、
「正絹?」
と訊かれるご時世なのである。それくらい七五三の着物がクソなものばかりになった世の中。
そして、撮影してもらう。子供をご機嫌にしながら写真を撮るのは大変で、終始、カメラマンは愛娘を笑わせるようアホなことをし続ける。ハードな仕事だ。
写真とはいかに表情を引き出すかであり、テクニックはあって当然。
大人の女、プロモデルなどその気にさせるのがプロであり、大御所の誘導になると、
「もうアタシ、脱いじゃう!」
と、のぼせちゃって、ホントに脱ぐからね。
さて、写真を撮ってからそのまま近くの氏神様へ。クルマだと数分。
そして、祈祷の申し込みをする。ちょうどこの日は神社の年に一度の儀式であって、縁起が良かった。
平日のため、とても空いている。七五三は他に2組ほど。
お札をもらい終了。
しかし、秋の晴天の光に染めた着物は映えわたる。もう全然違うよ、色彩が。他の2組には悪いけど、もう差があり過ぎちゃってさ。
リアルの宝石と夏祭りの夜店のオモチャ指輪くらいの差がある。これ、ホントの話。全然、違うもん。
神社に座っていた婆さんからも声をかけられて、
「いい着物ね〜」
なんて言われる。その世代だと正絹で染めたものとレンタルのポリエステルとの違いがわかるのだろう。
起床して5時間ほどですべてが終わる。
3歳の愛娘は帰りのクルマで眠ってしまった。ヘアメイクで1時間ほどじっとして、撮影もして、祈祷でもじっと座ったままで、そりゃ小さな子供はさぞかし疲れただろう。
自宅の駐車場でチャイルドシートから抱っこするも深く眠って起きない。3歳にしては大きな体を抱っこして、布団に寝かせるもやはり起きない。
着物を脱がせるのが大変で、なんとか肌襦袢姿にすると布団をかけた。
そして、わたしは着物をたたむ。
着物の仕事は脱がせて、たたんでやっと終了するのである。
やれやれと、一仕事終えた気分。
この着物を染めるに、今年は年明けにコロナが騒ぎ出して、そのおかげで染め現場の京都にも行けず、さらに自粛のせいで製造現場の仕事もほぼストップし、仕上がりも遅れた。
そこから仕立てに出し、草履も誂え、やっと出来上がった着物。
2歳の頃から着物がほしいと言っていた愛娘との約束を果たす。それも極上の仕上がりの着物。
そこそこの金を使ったけれど、清々しい。いいもので、これぞというものにきっちりと金をかけて提供した。誇らしい。そして、この着物はまだ着れる。もうすぐ訪れるお正月にも着る。
この七五三にかけたお金は生き金になった。愛娘にとってもこの記憶は美しいものとして残るだろう。
そして、わたしという人間の存在証明にもなった。とりあえず一枚の着物を残せて、順当にわたしのほうが早く死んで、でも着物でわたしの存在が認められる。
これがレンタルの安着物、というか着物と言える代物でないもので済ませていたら、こうはならない。
そして、それほど遠くない将来、こうしたまともな着物は日本から消滅するのだから。
次の7歳の七五三にはまだなんとかなるかもしれない。どこかが残っているだろう。しかし、成人の振袖となると、着物はないのではないか。
今回の着物を作ってくれたところだって、年齢的には愛娘の成人までは仕事をしていないだろう。
ひとつの文化がなくなろうとしているとき、ギリギリ七五三には間に合った。3歳の女の子に文化は提供できた。
コスプレでない着物。アニメ的演出のふざけた写真。そういうものからかけ離れたオーソドックスなもの。
3歳からそういうものに触れさせておけば、大人になっても変な方向にはいかないだろう。
と、そんな儀式を終え、わたしもホッと、そしてちょっとグッタリとし、猫を抱いた。