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「やりかけ」であること

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結月でございます。

今日、ふと、糸井重里のほぼ日の今日のダーリンを読むと、「やりかけの仕事」ということが書かれていた。

うん、確かにそうだな、と思った。

仕事に限らず、何かを「やりかけ」であることがいいんだよね。

だって、「やりかけ」であったら死ねないし、やりかけであるからそれを終わらせるために今日だけでなく明日も生きていける。

思えば、退屈そうに見える人、何かいい趣味はないかと探しまわっている人、そういうのって「やりかけ」がないから暇なんだろうね。

そして、もちろん「やりかけ」があって、それを遂行しようという精神がなくちゃならない。三日坊主のまま、ずっと「やりかけ」で放ったらかしというのは良くない。

でも、やりかけてみて、それが自分に合わないとか、自分には要らないとわかったらそ子は執着せず、捨ててしまうのがいい。

とは言え、それが習慣になってしまうと、どれも中途半端なままで、結局何一つやり遂げていない人間になってしまう。

まあともかく、「やりかけ」があるということは、やりたいことがあるってことなんだよね。

おそらく、大半の人って、具体的にやりたいことがないから、「やりかけ」な状態ではないのかもしれない。

「な〜んか、やりないなぁ」なんてつぶやいている人は多いけどさ。

幸いなのかは知らないけれど、わたし自身はやりたいことがたくさんあって、当然「やりかけ」な状態である項目がいくつもある。

それらは今後、やってみて結果が出るかもしれないし、やってみたけどダメだったとなるかもしれない。

でも、「やりかけ」であるから、それを成し遂げようと日々、その達成のために考えてみたり、行動してみたり、いろんな試行錯誤をしてみたりする。

そんなものだから、「やりかけ」でいることは若いってことなのかもしれない。

と、同時に「やりかけ」状態が長く続いて、いつも間にか年取ってるよ、なんて思うこともある。

「やりかけ」でいることは時にはストレスにもなる。うまくいかない葛藤があるからね。

でも、「やりかけ」がまったくなくて、暇なものだから星占いに没頭したりとか、そういうくだらないことに時間を使う状態よりは未達成である状態で葛藤しているほうが人間的に素敵だよねとは思う。

「やりかけ」が遂に達成されて、やりかけでなくなったとしても、好奇心があればまたやってみたいことが出てきて、再び「やりかけ」状態になる。

その繰り返しであるけれど、だから過去に達成したもののことは忘れてしまっていて、他人から見ればものすごい実績に見えても、当の本人は終えたことなど考えちゃいない。

他人は事象で見たがるけれど、当の本人にとっては時間であり、その時間は現在も進行している。

きっと達成したものを数えるのは死の直前に違いない。

やりたいことがあって、「やりかけ」であってももう死ぬんだからできないよねという諦めというか納得があったとき、やっと自分が自分の人生で成し遂げたことをカウントする。

わたしは少なくともそうありたいと思っている。

だから、まだ死の直前でないのに、過去のことを思い返すとか、思い出の数を数えるとかはしようと思わないし、そんなの、嫌だよね。

なんだかよくわかんないけど、わたしには3歳の愛娘がいる。その存在がとても不思議だから、なんだかよくわからない。

でも、そんな小さい子供を育てたり、世話したりする日々に生きていると、毎日「やりかけ」な状態になる。

まだ3歳だから、ひとりでできないことがたくさんあるから、彼女の「やりかけ」にいつも付き合わなければならないから。

五十音を全部覚えたとはいえ、去年だとそれは「やりかけ」の状態で、今は達成したけれども今度はカタカナや漢字、英語などなど課題は絶えない。

そんな子供を見ていると、大人になるにつれて「やりかけ」がなくなるのは当然だなともわかる。

「もういいや」っていう境地かもしれない。とりあえず生活できるし、みたいな。

それはそれでいいとしても、問題は「それで楽しいの?」ってことで、まだやれることがあるのに、やりたいこともなくてとりあえずオッケー的な日々を送る乗ってどうなのかな?

わたしはそんなのが嫌だからさ。

そういう意味で、ずっと子供のような新鮮さは持っておきたいって思う。

というわけで、わたしは「やりかけ」に取り組んでいて、うまくいかない苛立ちを抱えながらもそれがあるから生きていけてると自覚している。

やりかけてるものがないってさ、つまんないよね。

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