結月でございます。
コロナの影響でプールを中止する学校が続出しているとのこと。
これまた万が一、感染者が出たら学校はその対応に追われるため、プールなんかでそこまで責任負えねえよ、というのが正直なところでしょう。
プールが大嫌いなわたしはもし自分が学校に通う立場だったら大喜びする。
わたしがプールが大嫌いな理由
⑴ 泳げないから
⑵ 他人に水着姿を見られたくないし、教室で着替えるのが嫌
⑶ 必要がないものに時間をかけたくない
というわけなんだけど、まずわたしは泳げない。泳げないから学校で泳げるようにすべきという意見があるでしょう。いえいえ、泳げなくてもいいんです。
なぜなら、泳げないわたしは最初から泳ごうと思わないから泳ぎが必要ない。
そもそも泳がなくちゃいけないシーンなんてないものです。泳げないから川の水にも海にも入らない。最初から水に入らないから、わたしは絶対に溺れる心配がない。
溺れる人というのは、なまじ自分が泳げると思うから水に入って溺れるのであり、最初から水に入らない人は水に入らないから溺れようがないんですよね。
大洪水とか津波とか、とんでもない水難もあるけれど、そういった場合は多少泳げるくらいで助かるものでないし、そんな水難に出会うことを想定して泳ぎを覚えるなんてかなり頭が悪いです。
すなわち、泳ぐシチュエーションにならない自分にとって、泳ぎをマスターすることは時間の無駄。そんな不必要なものに時間はかけたくないんです。
あとは、水着姿なんて破廉恥なものは自分にはない概念。水着なんて死んでも着たくない。それを教室とかで着替えろとか、クラスメイトと一緒に更衣室とか、脊髄反射的に拒絶。
というわけで、学校での水泳の授業はわたしみたいな人間にとっては悪質な拷問であり、人権侵害なのである。
さて、なんでこんな話をしたかというと、人というのは自分が信じたいものを世界だと思うから。
泳ぎが大好きな人は、泳げることで得られるメリットがあり、それは清々しく、夏の太陽の下で海で泳ぐことがなんと健康的で、美しいか!と考える。
この喜びは人間であるなら知っておいたほうがいいもので、だからこそ、学校教育で水泳を扱うのはいいことなのだ!
とまあ、そんな人はわたしが人前で水着姿になるのが死んでも嫌なことや泳ぎたくもない気持ちをまったく理解しません。
それゆえにわたしのような人間はサーフィンの情報や海水浴場の混雑状況など興味がないからまるで知らない。
さらに言えば、泳ぐことや水に入ることが全面禁止になってもまったく困らない。むしろ歓迎するくらい。
これと同じような事象はいろんなところで見受けられるものです。
例えば、安倍政権のことがアレルギー的に嫌いな人はSNSで毎日の日課のごとく、安倍政権を悪く言い続ける。安倍政権が続けば日本が終わると思っている。
日本を救うために、日本が終わらないためにその正義感で安倍政権がいかに悪いかをツイートし、リツートし、シェアしまくる。
その人は日本のためにやっていて、安倍政権の最悪ぶりを知ってもらおうと懸命なのである。
しかし、そんなツイートやシェアを見るのは、自分と同じような人種であり、自分と同じような政治観を持った似た者同士しか見ないものです。
本当に安倍政権を終わらせたいのであれば、安倍政権を支持する人にその思いを伝え、その支持をやめてもらうようにしなければならない。そうしなければ、選挙ではまた安倍政権が勝ってしまうのですから。
ところがこの当たり前のことに気づいてない人が多いんですよね。
それって、北朝鮮の拉致問題と同じで、東京の街頭で、
「拉致被害者を返せ!」
と、コールをあげても、それを主張する相手が違うってことなのです。
拉致被害者を返すのは北朝鮮であるから、そのコールは北朝鮮に向かって言わなければならず、東京都民の一般ピープルではない。
また北朝鮮とは国の名前であり、北朝鮮の一般ピープルに言っても無意味。
金正恩に直接言うか、その外交官か、もしくは日本の外交官か、交渉の立場にある日本の政治家に言わなければならない。
ところが政権批判する人のように、結局は同じ考えを持つ人にしか伝わらないという現象が起こるわけです。
拉致被害者を返せという気持ちは北朝鮮に届くものではなく、安倍政権のことが嫌いな人のように同じ考えを持つ人たち、つまり身内の中で共感しているだけということになる。
しかし、この愚かさに気づかないのは、
「人というのは自分が信じたいものを世界だと思う」
という原理に埋没してしまうからなんです。
拉致被害者が帰ってくると信じたい。それだけがその人の世界になり、実は大事なところに伝わっちゃいないのに世界だと勘違いしてしまう。
安倍政権のことが好きな人の気持ちを理解しようとせず、政権批判を繰り返すのも政権を否定することが世界になっているからなんですよ。もちろん、その逆も然りで、安倍晋三のことが大好きな人は安倍批判する人の気持ちは理解しようとしません。
結局は自分が信じたいものをマイワールドにしているにすぎず、それを関係ない人に押し付けているなんてことになる。
それは泳ぐことが必要でない人に対して、泳ぎはできる方がいいと信じて、学校教育で一律にやらせようとするのと同じでしょう。
これは文化も同じことで、例えばいくら着物が日本の伝統的なものだと言っても、着物が滅びて困る人は日本全国にはほぼいない。
困るのは呉服業界に関わる人や茶道などなどをしている人、そんな風に限定されるもので、着物を着ない人にとっては着物が日本からなくなっても痛くもかゆくもないわけです。
それをあたかも大事件のように思い、着物文化の衰退は日本文化の衰退と直結させたくなるのが着物に関わる者で、しかし、日本文化は着物だけでないし、日本文化の一つが消滅したという事実はあっても日本文化がなくなるわけではない。
大事件に思えるのは、そこに携わって生きているから、それがなくなれば自分が食えなくなるという事実、そして自分の人生の多くの時間をそこに費やしてきたという個人的な事実が飛躍するためです。
全体で見れば、ほとんど困る人はいないのが事実です。
音楽だって同じで、もしオーケストラがコロナの影響で潰れてしまっても、それで困る人というのは日本の人口からしてもほぼいません。困るのはそのオーケストラ所属団員や職員たちであり、音楽そのものが死ぬわけでもない。
ところが、
「人というのは自分が信じたいものを世界だと思う」
という原理が働いて、それが全ての世界だと思ってしまう。
普段、ヒップホップを聴いている人、演歌が死ぬほど好きな人、ロックに命がけになっている人、アイドルグループが命な人。そんな人々にとってはクラシック音楽を奏でる団体がなくなろうともなんら影響はない。
それなのに自分が愛しているものがなくなりそうになると、あたかも世界のすべてがなくなるような感覚にとらわれ、音楽がいかに素晴らしいものであるかの熱弁がさらに加速する。
その素晴らしさはそれが好きな一部の人たちだけにしか通用しないのにそれを世界として捉えるのは、水泳の授業と同じようなものです。
音楽が素晴らしいと思っているのは、音楽が好きな人だけ。これは紛れもない事実です。世界の一部であり、世界全体ではない。
ちなみにクラシック音楽畑のわたしは、もし国内のオーケストラがすべてなくなってもまったく困らない。
なぜなら、音楽を聴こうと思えばCDがたくさんあるし、そもそもコンサートには足を運んではいなかったので、あってもなくても同じなのです。
もし生音が聴きたければ、ヨーロッパに行けば聴けるし、アメリカでも中国でも聴ける。
さらに言えば、この世からヒップホップがなくなっても困らない。演歌は大嫌いなので、あんなものはこの世からなくなってほしい。
でも、世界は多様であるから、そうした個別の文化を潰そうとは思わない。あればあったでいいし、勝手にしておいてもらえればいいし、自分に強要さえされなければ存在してもらっていい。
ただ、最初から関わらないから、水に入らなければ溺れることがないというのと同じく、ヒップホップや演歌は存在していてもわたしには存在しないも同じ。
ヒップホップが大好きな人にとって、演歌に全てを捧げている人にとって、それらの音楽が何かの理由でなくなることは全人生を否定するかのような悲劇であっても、それは個別の事情であり、最初から興味がないわたしはなんとも思わない。
これはクラシック音楽ももちろん同じで、クラシック音楽の場がなくなることはその人にとっては全人生的に悲劇かもしれないけれど、実は個々の問題でしかないのであって、大半の人にとっては取るに足りないことなのです。
そんな俯瞰的な見方をしないで、自分の主観だけを世界にしてしまうと考え方が原理主義化してしまい、ちょっとファッショになってくる。
音楽の力なんて、それを信仰する人たちだけのものであって、「あっていいけど、なくても困らない」が事実です。
安倍政権がどれだけ酷いかは知らないけれど、安倍批判をして、このままじゃ日本は終わるみたいなことは随分前から言われちゃいるのに、日本は終わっちゃいない。そもそも「日本が終わる」とはどういう状態になることなのかもはっきりしない。
悲劇的観測は脳内のイメージであり、妄想なのかもしれない。
自分が嫌いなものが存続し、自分が好きなものが滅亡してしまう。これはいつの時代にもあることで、なぜなら世界というのは多面的であるからです。
世界を牛耳る「ひとつ」なんてものはなく、小さな細胞が集まって世界ができている。それなのに人間は自分が信じたいものを世界だと思いたい。
だから、自分が信じるものをごり押ししちゃいけないんだ。いくら音楽が素晴らしくても、それを「あるべき」とごり押しするのは間違いだと思う。
音楽が好きな人たちだけで、音楽という経済環境が回っていればそれでオッケー。しかし、その経済環境が破綻しそうになって、それをごり押しして無理に存続させようというのも興味のない人にとってはいい迷惑かもしれない。
人によってオーケストラに補助金を出すくらいなら、殺処分される猫を救えという主張もあるだろう。
だから、芸術という本来なくても困らないものは、自力で経済を回していく覚悟がなくちゃいけない。
芸術をパトロンが支えていたのは大昔の話で、今のような市民社会で通用する話ではない。
音楽が素晴らしいというのは、真夏の太陽の下で泳ぐことが素晴らしいという一方的な意見と変わりがない。
コロナで数多くの業種が危機的状況になると、自分が信じたいものを世界とより強く思いたいものだけれど、自分が信じたい世界は自分だけのものでしかなかったという事実に目覚めて生き抜いていかなければならない。
そこを出発点としてやり始めることが大事。