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料理って愛情が大事だよね。

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結月でございます。

料理には上手い下手がある。それはどれだけたくさん料理をしてきたかという経験の数にもよるし、レシピなどがどれだけ頭に入っているか、あとは火加減のセンスだったりする。

でも、上手い下手以前に大事なのは、料理は愛情なんだってこと。

なんて言うと、ダサく聞こえちゃうけど、料理は食べさせる相手に美味しいものを作ろうという気持ちが大事で、相手への愛情を土台にしながらするのが大事。

それがないと、いくら経験値が高くても、いくら正確なレシピで作ったとしても美味しいものはできやしない。

だから、不機嫌な時に料理をしてもうまくいかない。不機嫌は愛情を削いでしまうから。

逆に美味しいものを相手に食べさせようという愛情があれば、いくら不器用で、ひどい料理ができたとしてもそれは憎めないもので、味は良くなくてもなんだか食べられるもの。

ところがそういう愛情がなく、ただ作ったという料理は食べる気がしない。

冷蔵庫にこのまま放置しておけば悪くなりそうだから、それらをまとめて炒めましたとか、そういうのは料理とは言えない。在庫処分。

たとえ材料が古くなっていても、美味しいものを作って食べさせようと思って作れば、出来は悪くとも食べられる。

不思議なことに人間的には愛情がある人でも料理となると愛情がこもらない人がいる。

つまり、それは料理に向いていないんだ。

どこか料理にコンプレックスがあるのかもしれないし、育ちが貧しくて小さい頃にロクなものを食べてなくて、料理というものに喜びを、そして食べるという行為に楽しさを感じる余裕がなかったのかもしれない。

しかし、理由はなんであれ、美味しいものを作りたいという愛情がないものを食べさせられるのは拷問のようであり、そんなものを食べるくらいならカップ麺のほうがよほどいい。

失敗することはいい。問題は料理に愛情を込められないことなのである。

ところでわたしは料理がまあまあ好きで、でも専門的に勉強したことはないし、見よう見まねでしかなく、とは言えやっぱり料理が嫌いではない。

だから、食材を買いに行く時は楽しいし、材料を切っている時も楽しい。

特に今は3歳の愛娘がいるから、食べさせる相手がいて楽しくやれる。

でも、自分だけの食事を作るとなれば適当な手抜きになり、あまりやる気は出ない。ナルシストでもないし、自分が食べるものに気合いを入れるのも馬鹿らしくて、愛情というものが芽生えない。

愛情がないから結果はよろしくなく、しかし自分が食べるものにそこまで望みがないから不満もない。

自分のために作ってもその程度のものしかできないから、ひとりの時はスーパーの惣菜で済ませたり、牛丼を持ち帰ったり、マクドナルドをテイクアウトしたりする。

それらに愛情はなくとも、お客に美味しいものを売ろうという気概があるから、愛情なしの自分よりもずっといいものだと思う。

ところで、他者がいる時、他者と食事する時は、

「何食べたい?」

と、尋ねることが大事だと思う。

わたしは人と外食するのは比較的好きだけれど、人の家に呼ばれて食事するのが好きじゃない。なぜなら、一方的に作られたものを食べさせられてしまうから。そこには、

「何食べたい?」

がなく、その家のルールで一方的に出されることが多いのである。

それは親戚の家に行ったときなどそうかもしれない。わたしは親戚づきあいが皆無だからよくわからないが、そういうものだと思う。

自分の実家に稀に行った時も同じで、出されるものが一方的で自分たち中心。他者への愛情がないことには閉口する。だから美味しくない。ひどいものを出しているわけじゃないけど、自由がないから窮屈で楽しくないのである。

少なくとも食事を共にするのであれば、

「何食べたい?」

と、尋ねてほしい。

とにかく、一方的に作られて、一方的に出される料理なんて美味しいものじゃない。

だから、わたしは3歳の愛娘にもいつも、

「何食べたい?」

を尋ねることにしている。

3歳児だから、まだあまり料理の名前を知らない。

「おそば」

だとか、

「おさかな」

だとか、

「うめぼしとごはん」

であったり、

「スパゲッティ」

であったりする。

でも、そういうコミュニケーションはとても大事だと思う。相手の希望を聞いた上で何を作るかを決めていく。

そうでないと、自分がカレーを猛烈に食べたい気分の時に刺身の盛り合わせなど出されたらたちまち気分が悪くなってしまうから。

何を食べようか?とお互いにあーだこーだと話しながら折衷していくプロセスも楽しい。そうやって買い物をし、料理を作る。

食事が一方通行であってはならない。

しかし、最悪なのは、

「なんでもいい」

と答えておきながら、後から文句を言うこと。これは人として最低だからやらないほうがいい。

「食べる」ということはなかなかに難しいものなのだ。孤食ならいいけれど、他者がいると難しい。

でも、その難しさを克服するやり取りが文化であり、おもしろさである。

それをしないで、一方的に食べさせるというのは、家畜への餌と同じ。

だから愛情が大事なんだ。

その愛情が料理をしようと思わせる。

しかしながら、料理に愛情を込められないタイプの人のこともわからなくはない。なぜなら、わたしは洗濯物を畳むことには愛情がないから。

服なんてどうせ開いて着るんだから、適当でいいと思っている。だから畳み方は非常に雑であり、はっきり言ってひどい。

こんなわたしはどうやってもきっちりと畳むことはできない、だって、畳むことに愛情を注入できないから。

きっと料理が下手だったり、一方的に作ったりする人はわたしの洗濯物みたいなものなのだろう。食べるものなんてどうでもいいと思っていたり、そこまで価値を感じていない。

そこそこ食べられればいいという程度、冷蔵庫の中身がなくなればいいという程度の料理。

わたしが洗濯物をきちんと畳んで収納しないのと同様に、料理に愛情を抱けない人は美味しいものなんて作れやしない。

結局、人間には向き不向きがあり、何を大事に思うかなのだろう。

ただ、シワだらけのパンツを穿いてもどうってことないが、不味い料理を食べるのは辛い。

だから、食事というのは人との潤滑に重要であり、美味しいものは単純にも人を幸せな気持ちにする力がある。

「愛情のない料理は餌」

 下手くそでも愛情のある料理を作ろう。

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