結月でございます。
人間っていうのはなんだかよくわからないものに怯えたりする。実際に怯えた通りになることもあれば、ならないこともある。
怯えてしまうことによって誰かにひどい扱いをしてしまうこともある。
怯えてしまうことによって誰かを遠ざけてしまうこともある。
それが本当にそんなに怯えるものなのかよく調べていないのに怯えてしまうことはよくある。
専門的な知識を要するものはよくわからないから、その知識の不足で頭の中に空洞ができてしまって、そこに想像による怯えで満たしてしまったりもする。
人間というのは自分を守ろうとするものだ。
自分が幸せになりたいと思うものだ。
自分が不幸せから遠ざかりたいと思うものだ。
だから、誰かが不幸を所有していると、できることならそんな縁起の悪い人はどこかへ行ってほしいと思うものだ。
でも、本当にそれはそんなに怯えなければならないものなのだろうか?
怯えたほうがいいかもしれないけれど、そこまで怯えることが正しいことなのかというと、もしかしてそこまでのものでないかもしれない。
怯えた通りの結果になったとしたら、誰かを恨むのだろうか。
自分に不幸をもたらしたのは「あいつ」だと恨めばいいのだろうか。
誰だってその不幸を歓迎しているわけじゃない。歓迎していなくても避けられないものはこの世にはたくさんある。
怯えとは感情の部類に入るものだろう。
知性は感情でないから怯えたりはしない。
まずは知性でもって本当にそんなにまでして怯えなければならないものかを検証しよう。
他者に辛く当たったり、自分が知らぬ間に他者を傷つけていないか、知性でもって心をスキャンしてみよう。
自分が他者に辛く当たったり、自分が他者を遠ざけてしまったりすることと、その不幸と天秤にかけてみてどちらが人間として「善」であるか、どちらが人間として「美しい」かを知性でもって考えてみよう。
その考えた結果で自分の行動を決めてみたらどうだろうか。
怯えることによって誰かを傷つけてしまったり、差別してしまっている真っ只中では博愛は生まれやしない。
博愛とは知性によるスキャン結果で生まれてくるものじゃないだろうか。
そしてその不幸が本当に手に負えないもので、どうにもならないものであって、自分にその不幸が襲いかかったとしても感情でその不幸の根源を恨まず、知性によって受け入れ、不幸が去るのを静かに待とう。
知性がないと人間は恐ろしいものなのだ。
知性がないと人間は独善的になってしまうものなのだ。
知性がないと人間は差別を正当化してしまうものなのだ。
どうすることもできない不幸、それは目に見えなくて、どこにあるかもわからず、もしかするとそこにはないかもしれないけれど、とにかく厄介なものだとすれば、知性でその不幸を分析しよう。
遮断すべきは不幸ではない。
遮断すべきは、知性がない言葉や行いなのだ。
不運にも不幸が蔓延する地があったとして、そこに注ぐべきは知性から生まれた博愛であって、怯えからくる嫌悪であっちゃいけない。
怯えからくる感情で、怯えからくる行為によって誰かを傷つけたり、恨んだりするのなら、自分が不幸になるほうを選ぼう。
その不幸に冒されてしまうと自分の肉体は辛いかもしれない。
でも、肉体は辛くとも怯えによって誰かを理不尽に傷つけたり疑ったりしなかったという「美しさ」は自分の精神には宿る。
肉体のほうは辛くともなんとかなるかもしれない。しかし、精神が美しくないものに冒されてしまうと治療は難しい。もし治ったとしてもずっと後悔が残ってしまう。
知性があれば怖いものなんてない。
怖いと思うのは、知性的でない感情が暴走しているからなのだ。
感情は決して暴走させてはいけない。それが暴走すると人間は不幸よりも恐ろしいことをしてしまう。
知性でもって博愛の心を生み出そう。
辛い状況にあったり、不幸に近いところにいる人たちに疑いの言葉でなく、博愛を捧げよう。
怯えを増幅させちゃいけないんだ。
知性で怯えの火を消そう。
そして博愛の心を生み出そう。