結月でございます。
年に一度の会社の決算処理。帳簿をまとめるとか、そういうクリエイティヴとかけ離れた事務作業が虫唾が走るくらい嫌いなわたしにとって拷問的時間が続く。
とは言っても、今年度は東京から栃木に来た一年であって、その伝票の数の少なさに、
「う〜ん、仕事してねーな〜」
と、実はそれほど事務作業は大変ではない。
レッスンは月二回になってしまったし、いきなり栃木に来て、さあ、この土地で自分が何できんの?と、いまいち冴えたアイデアも出てこず、土地に慣れることに時間を費やしていた。
それと東京からこちらに来なければならなかった根本的理由の育児。栃木に来た時は愛娘は1歳11ヶ月で、この一年は2歳の女の子の世話に肉体的にも精神的にも大きく費やしたのだった。
つまり栃木も初めてで、育児も初めてで、初体験の日々のこの一年。
夏が始まる前に落ち着いたとはいっても、魔のイヤイヤ期はなかなかハードで、大人の論理が通用しない大泣きには太刀打ちできず、やれやれという日々もあった。
しかしながら、わたしは大学の時に精神分析学者のエリクソンの発達心理学を勉強していたので、これが大いに役に立った。
子供の発達段階を前もって心理学的に把握していたおかげで、泣きじゃくる子供に対して分析的に理解できたため、クールでいられたと思う。
おそらくこういう知識がない親、ほぼ大半の親はその理解ができず、大人の都合にはまらない子供に壮大なストレスを抱えてしまう。最悪な場合、虐待に至る。
さて、ワンオペでずっと愛娘と付き合っていて、今年、仕事をほとんどしなかったのはちゃんと理由がある。
つまり、2歳という言葉を覚え始める段階で、しかもイヤイヤ期がある時には精神的にも肉体的にも十分な余力がないと付き合いきれないとわかっていたから。
余力があれば、小さな子供がお茶碗をひっくり返してしまっても、
「あら、あら」
で済ませられる。
しかし、その余力がなく、仕事でストレスを抱え、体力も消耗している時は危ない。それを寛大に受け入れることができず、手が出てしまったり、怒鳴り散らしてしまう。
自分の精神的、肉体的容量が100だとすると、育児をするなら50以下の状態で保たないとやってられない。
これが仕事のストレスを抱え、勤めから帰ってきて、容量がすでに100近くになっていたら、とてもじゃないが小さな子供のわがままや失敗は受け入れられない。ブチ切れてしまう。
そういう理由で勤め人をしながらのシングルマザーはいい環境になることはないと思う。
わたしみたいに自分で仕事をしていて、時間も仕事も自由になる身であればいいけれど、他者関係が面倒な勤め人でストレスなしで仕事できる環境はあまりない。
しかも容量の大きさはパソコンのスペックと同じく人によって異なる。
容量が100もない人であれば、ちょっとしたことで振り切れてしまい爆発する。多くの虐待はその容量の大きさと環境によるものであって、容量が小さく、さらに小さなアパートで4人暮らしなど、環境が劣悪だと危ない。
それをわかっているから、わたしは自分の容量と照らし合わせて、ストレスがたまるようなことや肉体的に疲労することは避けてきた。
だから、やりたいことの半分は諦めている。子供がいなければもっと爆裂してやりたいことはあっても、それは控えて容量を使わないようにしている。
それゆえに2歳児相手にも寛容でいられて、愛娘とは実にいい関係を築けている。
「三つ子の魂百まで」というように人間は3歳までどう過ごすかによって人間性が決まると言っていい。
今が一番大事な時で、どういう環境を作れて、どういうことを教えられるかが最優先だから、自分のことは後回しにする。
そのほうが結果的にちゃんと育って、将来が扱いやすいし、長期的に見れば今は自分のことは捨てて育児環境を最適にするほうがいい。
自分がやりたいことは後になってもできるし、何よりも今は愛娘に時間と労力を投資するのがいいのは、わたしなんかよりも愛娘のほうが未来が大きいから。
子供は親を超えるものだから、向こうのほうが才能を発揮する。そうでなくては困る。親を超えない子供じゃ困る。
さらに言えば、育児と教育は違う。この点を理解している親は少ないのではないか。
育児だけであれば、シングルマザーでもできなくはない。頑張ればできるかもしれない。正直、子供なんて勝手に育っていく。
しかし、教育となると勝手にはいかない。肉体的には勝手に育っても、人間としての教育は施さないとできない。
育児を頑張るなんて、それほど大きな価値はない。それは最低限のことであって、その先が大事。
だから、親が苦労して育てたとか、そういう演歌調の苦労話はわたしは全くいいと思わない。そんな苦労が子供の教育にとっていいかと言えば、そんなことはないから。
子供にとっても親が苦労してほしいなど思うはずもない。苦労しないで生きてほしいと思う。
それなのに苦労されると恩着せがましくなるし、家庭に悲壮感が漂って暗くなる。暗くなると人間は育ちにくい。どこかで弊害が出てくる。
学歴も連動していて、暗い家庭からは高学歴は出にくい。明るくて、過ごしやすい家庭の子のほうがよく勉強する。
だから小さな子供といるときは、悲壮感を出さないこと。悲壮感が漂ってしまうようなストレスのある仕事はしないこと。それを無理に隠しても子供はすぐに見抜く。すると子供にも悲壮感が感染して、子供も暗くなる。ネガティヴになる。
そんなことを考えて、今年一年は自分がネガティヴにならないためにも大変な仕事はできるだけせず、自分を2歳児の前でニコニコと優しくいられる状態になるように心がけた。
本来なら自分がやりたいことができないのはストレスがたまるものだけれど、そこはきっぱりと割り切った。執着せず、選択肢として重要な方をクールに選ぶ。そこに自分の欲望や願望を持ち込むことはない。
と言いながらも仕事はしなければならないから、愛娘が年々手がかからなくなるに合わせて、やりたいことができるような準備は着々と進めていて、時期がくれば仕掛けられるようにしている。
物事は長期的に見ておくのが大事。その上で、今の行動を決めて行く。
近視的になってしまうと、人間というのは悲劇的になりやすいからね。