結月でございます。
映画「ジョーカー」がヒットしているというので、観てきたよ。
映画専門家であるわたしは映画のレベルや良し悪しはワンカット見ただけでわかっちゃう。
『ジョーカー』は予告編を見たら、
「ムムッ!いい写真、撮ってんじゃん!」
と、観に行くことをすぐ決めた。
後から知ったんだけど、この映画、ヴェネツィアで金獅子賞だったんだって。うん、そりゃ、獲るわ。
映画としては、映画の基本をきっちりと押さえて、100年以上の映画史の中の傑作をちゃんと踏襲していて、映画の撮り方としてはとてもオーソドックス。奇抜なものじゃない。王道を行ったって感じ。
だから、映画としての真新しさはなかったけれど、映画としてはウェルメイド。まあ、着眼点としてはヒーローがクレイジーをぶっ殺さないっていうところはちょっと新しいかな。
つまり、あの映画のいいところは、バットマンが出てこないところなんだよ。
主人公がああなってしまったのは社会に原因があって、そこに同調する大衆がいる。これはテーマとしてはすごく「今」なんだよね。
今はスターの時代じゃなくて、無名で注目を集めて、無名の大衆が動く時代。YouTubeはその典型。
映画の中で過去の名作のシーンをパロディでなく、引用してる。
全体的にはスタンリー・キューブリックっぽいなって感じだし。夜のクラブとか、病院の真っ白な照明。あれはキューブリックの色だね。『アイズ・ワイド・シャット』だよ、あれは。
とはいえ、映画を見る限り、間違いなく監督はクレイジーな人じゃないから、キューブリックのような作り手の狂気は映画にはない。でも、よく描けているからウェルメイド。
音楽はエリック・セラっぽい。というか、リュック・ベッソンの『ニキータ』から映画の音楽のモデルはエリック・セラになっちゃった。
あの音楽は度肝を抜かれる革命的なものだったけれど、今はそれがスタンダードにまで定着した。
主人公が過去のシーン、つまり母親が若い時、病院で聴取を受けている場面に主人公が後ろに立ってその様子を見ているというのはね、あれはイングリット・ベルイマン監督の『野いちご』だね。
あの手法もベルイマンが確立して、ウディ・アレンもパロディでよく使う。ベルイマンの手法をそのまま使うと普通はダサい映画になるんだけど、「ジョーカー」は映画そのものに力があるからそうはならなかった。
病院で主人公が枕で母親を殺害するシーン。あれはジャック・ニコルソン主演の『カッコーの巣の上で』だよ。監督はもう狙ってやってる。
さらに主人公がパンツ一枚で奇妙な踊りをする場面。あれはフランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』でしょ。
と、名作のオマージュ満載の映画が「ジョーカー」だった。
そういう意味で、すごくよくできた映画だけれど、新しいジャンルを開発する映画ではない。でも、いい映画だったから満足度は100。
脚本が見事で、主人公がジョーカーになるまでに大半を費やし、なってからは後半の後半というところ。
普通に脚本を書いちゃうと、それを半分半分にしちゃうわけ。半分をジョーカーとしてのクレイジーな行いに費やしちゃう。
でもこの映画がいいのは尺の80%ほどを主人公がジョーカーになるまでに費やして、ジョーカーとしての行いは最後だけにしているところなんだよ。
いや、あれだけでもう十分だから。彼の出現によって、大衆が湧き上がったんだから。
そして精神病院にぶち込まれた主人公は何も解決していない。それがいいところで、現実ってそうだから。ハッピーエンドなんかあるわけないから。
ああいう生い立ちの人間はどうやったってああなるしかないから。矯正なんかできないから。
そうなってしまう原因が社会にあって、すべてを社会のせいにはできないけれど、ああなっちゃう人間がいるのが事実だから。
それを媚びずに描いたところがあの映画のいいところ。
映画としては60年代のアメリカンニューシネマの今バージョンって感じかな。主人公が汚いジャンパーを着て街を歩くシルエットなんか、『タクシードライバー』だもん。
そして、『タクシードライバー』で主役をやったロバート・デ・ニーロまでちゃんとキャスティングされてるんだからさ。
でも、デ・ニーロを使うだけで一体、いくらギャラに金がかかってるんだろう?
まあ、これくらい爆発的ヒットすれば、そんなギャラも安いけどね。
ともかく『ジョーカー』、すごくオススメです。
これに2作目ができちゃったらガッカリだよね。ほんとにバットマンが出てくる2作目とか。
やらないとは思うけど、『ジョーカー2』みたいな愚行だけはやらないで欲しい。なまじ主役がいいものだから、正真正銘のジョーカーになった姿を映画にしたいなんていうスケベ心が出ちゃうものだから、映画会社は。