結月です。
なんかこんなことになってるみたいです。
そもそも慰安婦像って芸術作品じゃないと思うんだけど、それを芸術の祭典で扱うのって趣味の悪い話だと思うのよね。
まあ、それは芸術に詳しくない人が監督をやって、その監督の趣味で展示したような感じがするよ。
ともかく、あんなのは芸術じゃないので、そこにテロ予告があろうと、それによって中止になろうと、
「どーでもよくね?」
と思っているわたし。
その中止に反対して、表現の自由が云々っていう意見にも賛同できなくて、それは神経過敏っていうか、考えすぎだと思うよ。
と、それはいいとして、補助金が不交付になるとの話。
いいんじゃないの、不交付で。
わたしはね、芸術、総じて文化っていうのは補助金でやるものでないと思ってるから。大きな企画は金がかかるから補助金に頼るっていうことになりがちだけど、補助金に頼るとそれが利権化されて、ひどい金の使われ方するものでね。
補助金を得るために政治家にすり寄ったりしなくちゃいけない。それは手段としては別に悪いことじゃないけど、それをやり始めるとどうしてもいやらしい話になっちゃうから注意が必要になる。
それに補助金がベースになると採算度外視になって、大赤字を垂れ流してもヘッチャラ。だって、それを税金で補填するんだもーんって仕組みになる。
わたしは芸術の催し物はチケット収入でやるべきだと思ってる。そうすれば責任感がマックスになっていい加減なことができなくなるから。
演劇にせよ、音楽にせよ、絵画にせよ、どんな芸術だってそれに携わる人はそれらが大事だって言うけどさ、そう思ってるのはそれに携わる人だけだから。あんたたちだけなんだよ、そんなこと思ってるのは。それに興味ない人にとってはそんなもの、なくたって生きていけるし、それよりも大事なものを個々が自分たちの世界で持っている。
だから、それを見たい、聞きたい人たちだけを集めて、そこからチケット収益をあげてやるべきでさ。分配の公平性が求められる補助金でやるのはおかしいんだよ。そもそも万人に共通すべき文化なんてないんだから。そこは政治的公平性と金銭の分配の公平性とをごっちゃにしてはいけない。
表現の自由にヒステリックになったり、補助金カットに怒る文化側にいる人って、自分たちがヤクザになってることに気づかない。
税金から出る補助金は自分たちが崇高なものをやってるから出すべきだと信じちゃってるから。
それはね、興味ない人からすれば取り立て屋のヤクザと同じなんだよね。
いやいや、そもそも自分たちがやりたいことなんだから、自分たちで収益あげてやろうよ。
そういうスタンスでなく、補助金ありきの企画だから慰安婦像なんていう芸術でもなんでもないものを展示しちゃう。どうしても考えが甘くなっちゃうから。
あとは補助金を扱う役所とか行政にそもそも文化力がないのが根本の問題。ちゃんと精査する力がないから、
「慰安婦像は芸術作品ではないでしょ」
ってことが言えない。
そのあたりがフランスと違うところで、やっぱりフランスは文化をわかってる人たちがそういう立場にいるよね。
もし文化や芸術を知っている人が役所や行政でその担当として仕事をしていれば、そもそも慰安婦像なんか芸術認定されずに展示もされなかったと思うよ。
ところで、だいたい文化っていうのはニーズがない。ニーズがないからそれで飯を食うのが大変。だから補助金でなんとかっていうことになって、文化事業は補助金目当てになっちゃう。そもそも不健全なものなんだよ。
でも、もしわたしのところに補助金出すからコンサートを企画してください!っていう依頼が来たら、引き受けるよ。当たり前じゃん。芸術やる人間ってサイテーだからさ、他人の金でもなんでもそれで自分のワールドを創れるのならやるよ。ワーグナーみたいなもんだよ。
ただし、チケット販売は最大限に努力する。できればそのチケット収入で経費がすべて清算できて、さらに利益が出て、その結果、税金いりませんでしたってなればいいんじゃん。
というわけで、芸術性も何もない慰安婦像を芸術の祭典で展示したことでミソがついて、結果、中止に追い込まれてチケット収入も上げられなかった企画になんか補助金は不交付でいいんだよ。